企画展「武蔵野の地名」関連講演会「武蔵野台地の地名から学ぶ」ご質問への回答

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ページ番号1030282  掲載日 2022年10月19日

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WEB開催の講演会「武蔵野台地の地名から学ぶ」で様々なご質問を頂戴しました。

講師の小田先生、武蔵野ふるさと歴史館学芸員の波田が回答いたします。

【質問1】

「境(さかい)村」の名前の由来は、様々な説があるようですが、小田先生のご見解を教えてください。

【回答1】

境については、名前説もあるようですが、隣村との境の解釈でよいのでしょう(小田先生)。

【質問2】

武蔵野市域には古くから水田がないと聞きますが、なぜ「田」のつく「野田(のでん)」という地名があるのですか?

【回答2】

「田(た)」は物を産み出す土地という意味があります。油田、塩田は水稲の場ではないのに「田」という文字を使います。「田(でん)」という言葉を『日本国語大辞典』第二版で引くと、「田(た)、はたけ。田地。田畑。」とあります。「野田」の「田」は「田圃(水田)」のみを指す言葉ではなく、「田畑」を指す言葉として解釈したほうが良いでしょう(波田)。

【質問3】

「野田」の読みはなぜ「のでん」なのでしょうか?

【回答3】

「野田(のでん)」という言葉を『日本国語大辞典』第二版で引くと、「野や田。野と田ばかりのような屋外の場所。」とあります。『日本国語大辞典』にはその言葉がどういった文献に登場するのか紹介しています。「歌舞伎・御摂勧進帳 四立」(1773)、「読本・南総里見八犬伝 八・七四回」(1814-1842)、「滑稽本・八笑人」(1820-49)に「野田(のでん)」の記述があるそうです。現在では耳慣れない言葉ですが、その当時は珍しくない読み方だったのではないでしょうか(波田)。

【質問4】

大野田小学校の「大野田(おおのでん)」とは?

【回答4】

『武蔵野市百年史』記述編2の565頁に命名理由の記述があります。「なお、仮称では第六となっていたが、数が増えるとどこか分からなくなり、また早い遅いで学校間に差が付くので地名で親しみを持たせるとのことで、また五日市街道を挟んで当時野田北と野田南があり、これを合わせて学区にしたので大野田としたとも説明があった。」つまり、「野田北」と「野田南」をあわせた学区の小学校なので、「大野田」としました。これらの記述の出典は恐らく市議会などの議事録に残されているものと考えられます(波田)。

【質問5】

「野田」は「本田」とどういった関係にあったのですか?

【回答5】

江戸時代から既に使用されている名称のため、その関係性を探ることは極めて困難です(波田)。

「野田」や「本田」について、コメントします。「田んぼが無いのに……」とのことですが、地名研究には「漢字にだまされるな」という合言葉もあります。あと、「田」ですが、今の「水田」ではないのかもしれません。講演会で提案したように、小字、小名、通称地名の調査をすべきですね(小田先生)。

【質問6】

「境南町」は境の南に位置することから命名されたのですか?

【回答6】

はい、ご指摘のとおりです(波田)。

【質問7】

「境南町」の読み方を「さかいみなみちょう」ではなく、「きょうなんちょう」とした理由はありますか?

【回答7】

当館発行の企画展「武蔵野の地名」図録の14頁の右上、図「町名理整理図(第六次案)」で確認できるとおり、第六次案の段階では「さかいみなみちょう」と命名する予定でした。しかし、同図録の15頁に「現在の町名 その由来」をまとめましたが、「境南(きょうなん)町」の項目に「境南(きょうなん)という名称は戦後呼称され、現在では固有名詞となり境地区においては境南(きょうなん)小学校、境南(きょうなん)商店会、境南(きょうなん)地区等市民に広く浸透しており、地元要望等も考慮し境南(きょうなん)町とした。」と命名理由が記述してあります(波田)。

境南地域についても講演会で提案したように、小字、小名、通称地名の調査をすべきですね(小田先生)。

【質問8】

「寺前」、「寺南」の「寺」とは「観音院」、「杵築大社」のどちらを指したのでしょうか。

【回答8】

神仏習合の時代だったとはいえ「観音院」が寺、「杵築大社」が神社ですから、「観音院」のことを指したものと思われます(波田)。

【質問9】

市内には、幾つかくぼ地を確認することができますが、それぞれ、どういった経緯で成立したのでしょうか?

【回答9】

昭和45年(1970)発行の『武蔵野市史』の27-30頁に神尾明正氏の「武蔵野のくぼ地形」が掲載されています。これには市内10カ所のくぼ地が地図で示され、幾つかは「成因の推論」が記述されています。しかし、結論を申しますと、昭和23年(1948)時点においても、市内のくぼ地がどのように成立したかは不明であり、現在もわかっていません(波田)。

くぼ地についてコメントします。小金井の法政大学あたりの凹みは、亀の甲羅の形をしていたので「亀久保」と呼んでいたそうです。くぼ地は武蔵野台地に数多い地形です。雨が降って、水がしみ込む所と流れる所の差なのでしょうね。武蔵野台地のくぼ地生成の謎についても、柳田の直感は水にありました(小田先生)。

(注意)頂戴した質問は原文そのままではなく、表現を変えています。

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