むさしの百年物語6 昭和40年代(1966~1975)

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ページ番号1003322  更新日 2016年7月29日

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武蔵野方式の確立

吉祥寺の大変貌

昭和40年代の最大の課題が吉祥寺駅周辺の再開発事業でした。市では、再開発事業に関して昭和29年から市議会に特別委員会を設置して取り組んできましたが、長い間地元からの賛同が得られず難航。荻窪─三鷹駅間の中央線高架複々線の着工もあり、駅前周辺整備が急がれていました。ようやく地元とも話し合いがつき、計画決定がなされたのは昭和39年(1964年)10月、同41年12月の事業決定を受けて吉祥寺駅周辺の再開発事業を開始しました。昭和43年には事業推進のための開発公社を設立、その後は同44年4月中央線高架複々線の完成、12月にはロンロンの開業があり、同46年吉祥寺大通りが完成、同46年から47年にかけてF・Fビルがオープン、同49年5月近鉄百貨店、6月東急百貨店が開店し、吉祥寺は新宿以西の最大の商業地となりました。

市民参加の基礎

吉祥寺が商業地として大きく変貌していく中、昭和44年11月、三鷹駅北口には世界連邦平和像(北村西望作)が建ち、昭和48年には武蔵境駅南口広場建設も事業決定しました。また、市民の高い知性と文化性を施策に反映するための市民委員会制度(昭和46年9月の緑化市民委員会が最初)で武蔵野方式の市民参加の基礎ができました。後藤市長は、「市民自治」「平和な緑と教育のまち」をめざし、基本構想・長期計画を策定。また、市民生活安定のため宅地開発等に関する指導要綱も策定し、福祉の面では、保育園の建設を進め、学校の鉄筋化が完了するのもこのころでした。

都市化と環境の変化

都心まで電車で30分から40分、上下水道が完備し、緑も残る本市に、マンションなどの高層建築物が進出し目立ち始めたのは昭和41年ごろからでした。平屋あるいは2階建て家屋に住む周辺の住民からは、マンションによる日照侵害、電波障害、風害、心理的圧迫などの苦情が市に数多く寄せられ、市でも指導要綱を制定し対策にあたりました。昭和30年代からの急激な宅地化による緑の減少は、都市化が進む代償としては大きなものでした。このため、まちの緑を取り戻そうと、市民委員会制度による緑化市民委員会を発足させ、緑化推進本部の設置、緑の憲章の制定と矢継ぎ早に対策を講じました。

中央線高架複々線化 式典の写真
中央線高架複々線化
ロンロンの写真
ロンロン
F・Fビルの外観写真
F・Fビル
吉祥寺大通りの写真
吉祥寺大通り
紛争の写真
マンション紛争
世界連邦平和像の写真
世界連邦平和像

コラム7 玉川上水を守る会と武蔵野の緑

玉川上水は、羽村から取水された水を淀橋浄水場(現在の東京都庁舎)まで引く用水路であり、飲用用水路でした。また、明治の初めの一時期には、船が行き交い大量の野菜や穀物を東京へ運ぶ水運路となったこともありました。その昔は、「人喰い川」と呼ばれるほど流れが急だったといわれています。それが淀橋浄水場廃止にともなって玉川上水の役割がなくなったとして、ここを埋めて道路にしようという計画が実施されました。当時、高度経済成長とともに、マイカーブームだった時代、川を埋めて道路が各地で作られていました。杉並区域では、すでに桜の木は切り倒され、水は流れなくなっていました。こうした自然破壊をともなう玉川上水の埋め立てに反対運動を起こしたのが、野田宇太郎さんや金子光晴さんなどの文化人が中心となって結成された「玉川上水を守る会」でした。昭和41年のことです。すでに、玉川上水は途中の甲州街道までが埋められていました。ここからなりとも、清流を復活させようと、都と折衝したり、さまざまな活動が始まります。これに市民で構成された武蔵野市緑化市民委員会も加わり、根強い活動を続けていきました。
現在、ゆるやかな流れで、水量が多いとはいえない玉川上水ですが、周りの木を元気にさせ、水鳥が帰ってきたり、鯉も泳ぐような川になっています。武蔵野市に豊かな緑が残り、緑に関する関心が高いということも、市民レベルで活動した「玉川上水を守る会」の存在があったからではないでしょうか。
(平成14年7月13日 歴史シンポジウム「武蔵野の歴史を語ろう」 中里崇亮さんのお話から構成)

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