むさしの百年物語プロローグ 太古~開村(紀元前2000~1889)

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ページ番号1003316  更新日 2016年7月29日

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武蔵野の黎明

水とともに見える古代人の足跡

太古の武蔵野台地は、火山灰が推積した土地であったため、十分な水が貯えられない広漠とした原野でした。しかし、湧水があるところは、そこが池沼(現在の井の頭池、善福寺池、妙正寺池、石神井池など)となり、やがて水が流れ出して河川となりました。これらの湧水池の周辺や河川の流域に人が住むようになります。昔から生活になくてはならないものが水だったのです。本市の東南部にある井の頭池周辺では、縄文時代中期から後期(今から約4500年から3700年前)の集落跡が発掘され、確認されています。

御殿山遺跡の碑

碑の写真
御殿山遺跡の碑

昭和37年の発掘では、直径5メートルの竪穴住居跡をはじめ、敷石住居跡や多数の土器・石器類が出土しました。昭和53年には東京都の指定遺跡となり、現在は井の頭恩賜公園に碑が残されています。

開発される武蔵野台地

吉祥寺の八幡宮や井の頭池の付近から、鎌倉時代末期以降に作られた板碑(供養の石碑)が出土されており、この時代にも人々が住んでいたことが推測されます。
この地域に大きな変化が生じるのは、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入城してからです。その後、家康は幕府を江戸に置き、政治・経済、交通の中心地としてさまざまな整備を進め、江戸は人口百万を擁する大都市に成長します。本市の周辺は、幕府御用の茅を刈る茅場(御札茅場千町野(注意))に指定されたり、将軍家や大名の鷹狩り場になっていました。そして、承応3年(1654年)に玉川上水が開通し、武蔵野の原野は農地として開発が進められたのです。

(注意)御札茅場千町野…江戸時代はじめ、武蔵野周辺の村々は、武蔵野に生える茅を、肥料や屋根材に使用しました。幕府はこれらの村々から野銭を徴収し、野銭札を交付していました。

市域の原型が形づくられる

万治2年(1659年)には、水道橋(現在の文京区付近)の吉祥寺門前町から、寛文2年(1662年)には西久保城山町(現在の港区)から住民が移住して、五日市街道沿いに短冊状に与えられた原野を開発し始めます。それぞれの集落は、それまで住んでいた土地の名前を付けて吉祥寺村、西窪村となりました。寛文12年(1672年)ごろ、練馬の農民が中心となって開発した土地は、関村(現在の練馬区関町)の前にあるという意味から関前村と名付けられました。境村は、出雲松江(現在の島根県)の城主・松平出羽守の御用屋敷の跡が開拓された地域(境南町)、保谷村の農民たちが開いた地域(武蔵境駅北側)、多摩郡西部の山間部から移住してきた人々によって開かれた地域(同西部)などから成り立ち、その地割りは不整形でした。
武蔵野市域には田はなく、畑地ばかりで、春には特有の「赤っ風」が吹くので、屋敷の周りにケヤキなどを植えて風よけにしていました。この風景は、最近まで見られました。
19世紀になると、農家と兼業して菓子屋や煙草屋などの商売をする者、大工や屋根屋などの職人も出てきました。4カ村のなかでは、吉祥寺村の戸数が最も多く、次いで境村、西窪村と関前村はあまり戸数が多くありませんでした。

武蔵野村誕生前夜

慶応3年(1867年)、15代将軍・徳川慶喜の大政奉還(政治の実権を朝廷に戻す)によって武士の時代が終わり、中央政府が政治を行う世の中になります。江戸は東京府と改称され、藩も県と改められていきました。
吉祥寺・西窪・関前・境の4カ村は、制度の改変に伴い、その帰属を変え、そして明治5年(1872年)に神奈川県に編入されます。翌6年(1873年)、この4カ村は他の2カ村とともに、神奈川県第11大区第4小区となりました。ここで、これまで別々に発展してきた村々が初めて同一区画に入ったのです。その後、明治21年(1888年)に市制町村制が制定され、この4カ村が中心となって武蔵野村が生まれることになるのです。

武蔵野市域帰属の変遷

変更前 変更後
江戸時代 幕府直轄領(野方領に属す) 吉祥寺村・西窪村・関前村・境村
明治元年6月 武蔵県(知県事3人) 吉祥寺村・西窪村・関前村・境村
明治2年6月 品川県(小菅県、大宮県、品川県設置) 6番組 吉祥寺村
20番組 西窪村・関前村・境村
明治4年12月 東京府(品川県廃止)
入間県(品川県廃止)
吉祥寺村・西窪村
関前村・境村
明治5年5月 神奈川県 47区 吉祥寺村
49区 西窪村・関前村・境村
明治6年3月 神奈川県第11大区第4小区 吉祥寺村・西窪村・関前村・境村(他に関野新田・梶野新田)
明治12年4月 神奈川県北多摩郡(郡区町村編制法) 吉祥寺村・西窪村・関前村・境村
明治17年7月 神奈川県北多摩郡 関前村外3カ村連合戸長役場(連合戸長制)
明治22年4月 神奈川県北多摩郡(市制町村制) 武蔵野村
明治26年4月 東京府北多摩郡(三多摩移管) 武蔵野村
昭和3年11月 東京府(昭和18年7月東京都)北多摩郡 武蔵野町
昭和22年11月 東京都 武蔵野市

コラム1 物語・御門訴事件

幕末から明治初めにかけて全国的な凶作が続きました。明治政府は各県に対して飢饉への備えを命じます。武蔵野市域を管轄していた品川県は、農民に貯穀(社倉)を求めました。江戸時代から飢饉に備えた貯穀は行われていましたが、多くの場合、裕福な農民が出穀するというものでした。ところが、品川県の貯穀は、貧農や困窮者からも出穀させるという厳しいものでした。これに対して、生産力の低い新田村の農民たちの代表は村の窮状を訴え、出穀を免除してもらいたいと嘆願しました。県側もいったんは妥協案を出していたものの、県知事によって覆され、強硬な貯穀を求めてきます。嘆願では要求は聞き入れられないと判断した武蔵野新田の十二カ村の農民たちは、集団で出穀の免除を訴えるため東京府内の品川県庁へ行進します。蓑笠姿の農民による直訴騒動。その数700人から800人と推定されています。武家社会が終わったとはいえ、当時としては大事件であったことは間違いありません。
明治3年(1870年)1月。この農民たちの行動に対しては、『徳川家の浪人が農民を扇動して蜂起し、東京城へ襲撃をかけるのだ』とか『上総・下総(千葉方面)や中山道(埼玉方面)からの農民や浪人が加わって東京に侵入してくる』、『各地でも農民一揆が集結している』などの風説が流れました。
政府も農民たちの侵入を阻止するために東京の口々に軍隊を配備させ、ものものしい雰囲気となっていました。このため、農民側は淀橋の阻止線を突破できなかったものの、警備の手薄な地域を通り、夜半ついに日本橋浜町河岸の品川県庁へ到着。門外へ居並び、村の窮状を訴え、出穀免除を門訴しました。「門訴」とは、門前から訴状を提出したり嘆願することをいい、一歩でも門内に入れば、それは「強訴」となり捕えられ、より重く処罰されてしまうのです。
これに対して県側は、多数の兵士を農民に差し向け、大砲まで放ってきました。農民たちはあわてふためき、ちりじりに逃散しましたが、多数の農民が負傷し、51人が召捕えられてしまいました。
この騒動によって、門訴に加わった村々の主だった農民たちが厳罰に処せられましたが、出穀は妥協案で示された量とほぼ同じでした。これは、農民たちの多くの勇気で勝ち取った結果でもあったのです。そして、御門訴事件で流された血は、いつまでも人々の心に刻み付けられました。

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