むさしの百年物語5 昭和30年代(1956~1965)

このページの情報をXでポストできます

ページ番号1003321  更新日 2016年7月29日

印刷 大きな文字で印刷

さらなる都市化への進展

進む人口の増大

昭和30年代、武蔵野市は人口の拡大(昭和30年1月:93,451人 同39年12月末:130,481人)、高度経済成長期にあった日本経済の進展もあって急速に都市化が進んでいきます。吉祥寺商店街が発展し、都営住宅や公団住宅の建設(昭和30年の都営緑町アパート、同32年緑町団地、同34年桜堤団地)、都心から緑を求めて移り住んでくる人々の住宅の急増で、昭和32(1957)年には人口が10万人を突破します。
しかし、人口の急増は、緑の減少、交通難、都市施設の不足等の問題を引き起こし、市政への要望の増加をもたらすことになりました。このような中でごみの焼却場(ふじみ焼却場:昭和33年9月)、し尿処理場(湖南処理場:昭和38年9月)を稼働、昭和39年1月には公会堂をオープンしています。

住民参加で行われた町名地番整理

明治維新後まもなくから、本市では江戸時代の開拓当時の4カ村の地区に、土地番号がそれぞれ付けられていました。ことに吉祥寺地域では小字名に各自勝手な俗称名を用いて使い、混乱をきわめていました。例えば、当時、三鷹駅北口周辺は「吉祥寺3000番地」台となっており、知らずに尋ねてきた人は吉祥寺駅で下車して困ったということも多々あったといいます。
こうして昭和28年から町名整理を求める市民の投書が寄せられるようになり、市議会でも実施確約を求める一般質問が行われるなど、町名改正の動きが始まっていました。市では学識経験者・文化人などで編成した委員会を結成、町名募集の方法で進めていくことに決定。しかし、歴史性、住民感情などにより難航し、ようやく昭和37年5月に8年間の経過を経て、現在の13町51丁目からなる新町名を実施しました。いままで「通名、小路名○○番地」と表示されていた住居を「○町○丁目○番地」で表示することとしました。この町名整理を基礎にして、昭和38年5月に吉祥寺東町と吉祥寺北町を皮切りに、昭和41年9月の関前と八幡町まで、現在行われている住居表示を完了させました。当時の新聞には『全市くまなく切り替えられるのは全国でも珍しいと自治省が感心するほど』と報じています。
この間、昭和38年5月には2代目市長に後藤喜八郎氏が就任。町名整理と住居表示の実施は、荒井市政から後藤市政にわたる大事業でもありました。

緑町団地の写真
緑町団地
ふじみ焼却場の写真
ふじみ焼却場(三鷹市内)
湖南処理場の写真
湖南処理場(武蔵村山市内)
公会堂の外観写真
公会堂
アジア大会の聖火リレーの写真
アジア大会の聖火リレー

コラム6 デコボコ道で事故

時は東京オリンピック開催をその年の秋にひかえた昭和39年2月のこと。9日の朝8時50分ごろ、三鷹駅北口前の駅前通りでバスが揺れたひょうしに、乗客が座席から床に放り出され、左足を骨折、全治1カ月のケガをするという事故が起こりました。
当時、駅前通りは舗装されていなかったのでしょうか? 当時の新聞によると「2年ほど前からアスファルトははげてひどい穴ボコ道。沿道の住民とバスの利用者から苦情が多かったが、今年になってやっと舗装工事が始まった。しかし、事故の起こったところはまだ工事にかかっておらず…」と伝えています。また事故の状況については「…道路に直径1.5メートル、深さ30センチの大穴があったためバスが大きくゆれ、最後部の座席に前向きにかけていた○○さんはつんのめるように床へころがり落ちたという。バスは発車して間もなくで、スピードは出していなかった…」こんな話が都下のあちこちにありました。
今では考えられない事故ですが、まだまだ都市基盤整備の過渡期であったころの痛ーいエピソードです。都下道路の整備はオリンピック開催を機に進められました。

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください

このページについてご意見をお聞かせください


このページに関するお問い合わせ

総合政策部 秘書広報課(広報担当)
〒180-8777 東京都武蔵野市緑町2-2-28
電話番号:0422-60-1804 ファクス番号:0422-55-9009
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。