むさしの百年物語4 昭和20年代(1947~1955)
市制施行、武蔵野市が誕生
武蔵野市誕生
敗戦後に武蔵野警察署などの官公署が次々と開設されました。これは、人口が急増し、官公署の増設が必要になったからではありますが、町から市に昇格するための前提条件として警察署や簡易裁判所、武蔵野区検察庁、税務署などの官公署の誘致に努力してきた結果でもありました。昭和22(1947)年11月3日、武蔵野町は市制を施行して、武蔵野市が誕生しました。人口は63,486人。初代市長に荒井源吉氏が就任。
人口の増加は市勢の発展のバロメーターであるとして、都営住宅や公団住宅を積極的に誘致しました。昭和24年(1949年)8月に吉祥寺第1住宅の建設が開始、以後次々と公営住宅の建設ラッシュが始まります。そのため市の様相は日に日に変貌し、近代都市へと成長していきます。人口の増加にともない、本市は小中学校の新設、増築が相次いで行われます。(昭和22年には第一中、同24年には第二中、同26年に大野田小、境南小、第三中、同27年に本宿小、同28年に第四中、同29年に関前小が開校)
都市基盤の拡充
市に昇格して最初に取り組まなければならない施策として上下水道事業がありました。どちらも昭和26年に事業をスタートさせています。水道は昭和29年に吉祥寺地区から給水が始まり、西窪、関前地区へと拡張、最後に境地区を給水区域に取り込みました。(全市普及は昭和34年3月)
一方、下水道は地面を掘り返して行う管きょ工事に加え、排水先が必要で、排水先の河川の改修が進まなかったため、宅地化の進んだ吉祥寺や西窪では至る所で生活汚水が滞留し、一雨来れば低地に流れ込む状態が続いていました。(この排水が可能となるのは、昭和40年代半ば以降まで待たなければなりませんでした)
昭和20年代には、文化施設の整備も進めています。昭和21年7月に図書館、昭和24年10月には陸上競技場、昭和28年6月に市営プールを開設。また、広大な中島飛行機株式会社工場跡地には、慶應大学医学専門部、日本歯科大学予科、電気通信研究所、東京グリーンパーク野球場、米軍宿舎(いずれも、後に学校施設や公園、公団住宅などになりました)、市営体育施設など、文教施設のほかさまざまな施設が建設されました。
コラム5 戦後のGHQ統制下での地方自治
GHQは、直接、こうしなさいとか、ああしなさいということは言わなかったですね。しかもアメリカ人が日本語で「どう思いますか」「ああそうですか、結構ですね」と言うだけ。ですから、こちらが追い込まれてしまうんです。
こんなこともありました……昭和24年から25年にかけてでしたが、当時生活保護の事務をしていた私の所へ都の職員の案内で、40歳前後のアメリカ軍の女性がやって来まして、「困っている人が来て、こんな暗くて嫌な所に来て、嫌な話をするというのはいいことだと思いますか」と質問してきました。私は「いや、いいことだとは思いません」と答えました。すると「そうですか、ではもっと快適な応接室を作るとか、方法はいろいろあると思いますが、どうですか?」と尋ねられます。「そのとおりだと思います」との私の答えに「ああそうですか、結構ですね。あなたの話に、私も感心いたしました。ではまたいつか来ます」と言って帰ってしまいました。
その後、まさか来ないだろうと思っていた私の所へ2、3カ月後に、その女性がまた来ました。「その後、どういうふうに改善しましたか」と言うわけです。私は「いろいろ考えたのですが、まだ基本的にまとまりません」と逃げました。すると「では、いつごろできますか」と聞かれました。私はとっさに「あと2、3カ月たちましたら何とか絵ぐらい描いてみたいと思います」と答えてしまいました。するとその女性は、「わかりました」と帰っていったのです。もうやるしかありません。上司といろいろ相談し、事務所に窓口を配置し、休憩室みたいなセットを置いて、ケースワーカーに常駐してもらうようなプランを作って待っていました。そうしたらまたやって来られました。私たちのプランを見て「ああ結構ですね。これはよくできました。できるだけ早く実現することを希望します」と言って帰っていかれました。
その後、間もなく福祉事務所制度になりましたが、アメリカの決して強制しない統制に感心しました。
(元武蔵野市総務部長 村野三郎さんのお話から構成)
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