むさしの百年物語3 武蔵野町誕生~終戦(1928~1946)

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ページ番号1003319  掲載日 2021年10月1日

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武蔵野村から「町」へ、変貌する武蔵野

軍需産業都市へ

関東大震災による被災者などの転入により、郊外住宅地として整備が進められた武蔵野村は、人口の増大にともなって昭和3年(1928年)11月に町制をしいて武蔵野町となりました。
郊外住宅地がいっそう広がり、近郊農村から近郊都市へと発展していったのです。かつては9割以上を占めていた農家の戸数も減少し、その農地面積も減少していきました。
農業割合の減少とともに、武蔵野町に新たに起こった事象として、日本の戦時体制にともなう軍需工業地帯化があります。昭和5年(1930年)の計測器メーカーである横河電機製作所、昭和13年(1938年)の中島飛行機株式会社武蔵野製作所(のちに武蔵製作所)、その下請け工場など、軍需工場の建設が相次ぎました。

十五年戦争と武蔵野町

昭和6年(1931年)から始まった満州事変後、日本は断続的に戦争を繰り返し、同12年(1937年)の日中戦争、さらに同16年(1941年)12月には太平洋戦争へ突入していきます。
戦争は、拡大するにつれて、ますます深く人々の生活に影響を与えていきました。青壮年の男子は、家族から切り離され、戦場へ駆り出されました。女学生や学生・生徒は、軍需工場へ勤労動員され、まさに国民総動員で戦争が遂行されました。食糧や生活必需物資の供給は次第に減少し、配給が行われるようになりましたが、それすらも滞りがちになっていきました。
戦争の末期には、米空軍による激しい空襲が各地でありました。軍需工場が集中していた武蔵野町も例外ではなく、とくに最新鋭の航空エンジン製造工場であった武蔵製作所があったことから、昭和19年(1944年)11月から翌20年(1945年)8月までに10回以上にわたって空襲を受けました。そのため、疎開する住民も多く、昭和19年(1944年)の人口59,251人が終戦時には41,865人へと減少しています。

町制施行記念式典の写真
町制施行記念式典
武蔵野町役場の外観写真
武蔵野町役場
三鷹駅北口開設の式典の写真
三鷹駅北口開設

中島飛行機株式会社武蔵工場の空撮写真
中島飛行機株式会社武蔵工場 米国立公文書館原蔵
空襲の空撮写真
空襲

コラム4 或る日の空襲体験

戦争が激しくなりまして、B29の爆撃がだんだんとひどくなりましたら、実家の空いた土地(現在の関前三丁目郵便局辺り)に高射砲の陣地ができました。私は疎開もしなかったので、爆撃というものを見ましたけれども、本当に悲惨なものでした。私の実家には兵隊さんが1個中隊いました。私たちは物置の方に追いやられていました。兵隊さんたちは、中島飛行機工場が爆撃されますと、その後片付けにほとんど毎日のように行っていました。朝起きると、今日も爆撃があるんじゃないかと、ご飯が炊けるとリヤカーに積んで逃げる毎日でした。
私の実家は昭和20年4月12日に爆撃されたんですが、屋敷に1トン爆弾が11落ちたんです。それで途中まで帰ってきてみましたら…、私の実家は1回目の爆撃でやられたみたいなんですが、2回目の爆撃が高射砲の陣地に落ちたらしいんです。一度爆弾がはねた土の山の上に、陣地の兵隊さんたちの死体…死体といってもばらばらで、だれがどうだか分かりませんでしたけれども、…その破片が散っていました。大きな木があったのですが、兵隊さんたちのゲートルが木のてっぺんに引っ掛かっているんです。中に足があるんですけど、だれも取れないんです。紐みたいなものが下がっていましたけれども、それは腸だったんです。その下を歩こうとしても、白骨化した足とか…肋骨なんか真っ白で肉は全然付いていないんです、どこにいっちゃうのか…とにかく死体がばらばらで、私も歩けなくて震えていました。あのときの爆撃の恐ろしさは忘れられません。
(平成14年7月13日 歴史シンポジウム「武蔵野の歴史を語ろう」 島津好江さんの談話から構成)

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