むさしの百年物語2 大正~武蔵野町誕生(1912~1927)

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ページ番号1003318  更新日 2016年7月29日

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人口の増大、農村から郊外住宅地へ

農家比率の減少

武蔵野地域において農業生産が最も盛んであったのは、明治末から大正の終わりの時期でした。当時の農産物は、繭と麦を中心として、陸稲や芋類が生産されていました。
しかし、生業の9割以上を占めていた農家の比率が減少していったのもこの時期でした。これは、農業をやめてしまった農家が増えたということではなく、村全体の戸数が増加したことによるものでした。(大正元年の総戸数:498戸、大正14年の総戸数:2,052戸)
中央線の整備にともない、郊外住宅地として注目されていましたが、これを決定づけたものとして関東大震災があります。

関東大震災が与えた村の変貌

大正12年(1923年)に発生した関東大震災は、東京市の住宅や京浜地区の工場や事業所の6割から7割を倒壊・焼失させ、多くの犠牲者を出しました。関東大震災は被害の甚大さとともに日本経済にも大きな影響を与えました。第一次世界大戦後の戦後恐慌に加えて、震災恐慌が加わり、金融恐慌へと発展していきます。
関東大震災は、被害が少なかった武蔵野地域に対しても大きな影響を及ぼしました。とくに武蔵野村は、都心と結ばれている中央線があったことから、多くの被災者が移り住みました。このことにより、武蔵野村は郊外住宅地という様相を急速に強めていくことになります。大正13年(1924年)には、成蹊学園が池袋から移転するなど、人口は急激な増加をみせます。(大正11年の人口:5,200余人、昭和2年の人口:11,500余人)
大正11年(1922年)末には農業か農業と兼業する商人や職人が大部分を占めていたと考えられる武蔵野村も、昭和2年(1927年)末には世帯数の半数前後が勤め人層となり、商業やサービス業に従事する世帯も増加しました。その間、大正5年(1916年)には電気が供給され始めました。東京市からの被災者などが、それほどの抵抗感なしに武蔵野村へ移住してくることができたのは、郊外住宅地化のための社会的な条件がある程度準備されていたことと無関係ではなかったようです。また、移住者の増大が、郊外住宅地化のための社会的な条件をいっそう整備させることになったのです。

武蔵野村の被害状況(大正12年10月の京大地質学・鉱物学教室への回答)

  • 倒壊家屋軒数 境 2軒、吉祥寺 1軒
  • 橋梁破損欄干 境 3カ所、吉祥寺 1カ所
  • 土蔵壁落破 30軒
  • 家屋壁落ち 800軒
  • 屋根瓦墜落 約100軒
  • 鳥居倒壊・破損 各1
  • 神社石灯籠倒壊 6
  • 寺院墓地石塔の倒壊 約8割
  • 振子時計全停止 全部
  • 井戸水濁水となる
関東大震災後の写真(神田周辺)
関東大震災(写真は神田周辺の様子)
関東大震災後の写真(神田周辺)
関東大震災(写真は神田周辺の様子)
成蹊学園の外観写真
成蹊学園
大正期の店舗の写真
大正期の店舗(伊藤行雄氏提供)
大正期の井の頭公園の写真
大正期の井の頭公園(東京都建設局西部公園緑地事務所提供)

コラム3 井の頭公園と井の頭学校

井之頭学校は、明治38年(1905年)9月に開設された非行少年(男子のみ)の教育・救護施設でした。この学校が御殿山の皇室御料地を借用して開設されたことが機縁となって、東京市は御殿山および井の頭の両御料地(後者は三鷹村所在)を借用して、市の郊外公園を建設することを計画していました。公園を築造して、将来にわたって手入れをしていくことは、井之頭学校の生徒にとって格好の実習対象になると考えられていました(実際に生徒がどうかかわったかは明らかではありません)。井之頭学校と井の頭公園は、単に場所が重なるというだけではなく、こうした深いつながりを持っていました。井之頭学校の教育内容は、午前は「学科」で通常の学習を、午後は「実科」で農業、園芸、木工、ミシン裁縫の四つに分かれて学びました。生徒数は明治の終わりから大正の初めにかけてが最も多く、約250人が寝起きを共にしていました。生徒の情操教育にも力が入れられ、和歌や俳句などを作ることや、能や狂言などの指導も行われました。大正15年(1926年)からは吹奏楽のバンドが作られました。非行少年の教育・救護施設ということで、外部と交流の少なかった井之頭学校の生徒たちでしたが、こんなエピソードがありました。
「私は第一小学校に昭和2年に入学したが、運動会のときは井之頭学校の生徒のブラスバンドがやって来て、バックグランドミュージックのように、ずっと音楽をやってくれていたことを覚えている。井之頭学校は塀に囲まれていたため、子供たちは近づかなかった。たまに近くを通ったとき、中の子どもが杉の木に登っているのを見たことがある」と鈴木隆さんは語っています。井之頭学校は、昭和14年(1939年)年に東村山町の萩山に移転しました。

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