平和案内説明板マップ

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ページ番号1015084  更新日 2018年6月1日

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平和案内説明板の写真
関前公園に設置されている平和案内説明板

第二次世界大戦当時、現在の武蔵野中央公園付近には、ゼロ戦のエンジンなどを製造する中島飛行機武蔵製作所という軍需工場がありました。この工場は米軍の攻撃目標となり、昭和19年(1944年)11月24日から合計9回にわたる空襲を受け、工場関係者をはじめ、周辺住民も多数犠牲となりました。市では、戦争や空襲の悲惨さを継承するため、武蔵野の空襲などに関係する箇所に、平和案内説明板を設置しています。

地図

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中島飛行機武蔵製作所 工場引込み線跡

概要

グリーンパーク遊歩道は、中島飛行機武蔵製作所への物資輸送の引込み線跡です。引込み線は武蔵境駅から玉川上水までの部分は、境浄水場の引込み線を利用して工場までの線路を敷きました。戦争末期には、工場はアメリカ軍の激しい空襲を受け、引き込み線も被弾しました。

関前高射砲陣地跡

概要

中島飛行機武蔵製作所周辺には、米軍機の空襲に備えて、日本軍によって作られた高射砲や機関砲陣地がありました。高射砲とは地上から航空機を撃墜するための大砲で、関前付近には高射砲が6門、半円形に配置されていました。市内には、他にも、現在の成蹊大学や日赤武蔵野病院の敷地内に高射砲陣地が設けられていました。

武蔵野市平和の木

概要

武蔵野中央公園の南側にある、はらっぱむさしのには、長崎市から譲り受けた、原子爆弾で被害を受けながらも、見事に息を吹き返したクスノキの2世にあたる苗木と、武蔵野市民の木であるハナミズキが、平和を願って植樹されています。

中島飛行機武蔵製作所 運動場跡

概要

第二次世界大戦当時、現在の陸上競技場は、中島飛行機の運動場として使用されていました。スタンドの土盛りに横穴を掘り、防空壕としても使用され、また、防空壕の上には、飛来する米軍機を迎え撃つため、高射機関砲が据え付けられていました。昭和19(1944)年12月3日の空襲では、この防空壕の周辺に爆弾が落ち、待避していた10~20代を中心とする工員・勤労動員学徒らが多数亡くなりました。

中島飛行機武蔵製作所 工場引込み線橋台跡

概要

戦時中、中島飛行機を狙ったアメリカ軍による激しい空襲により、武蔵境駅から工場まで敷設されていた引き込み線や隣接する境浄水場も被弾しました。引き込み線は昭和34(1959)年に廃止となり、この場所にはコンクリート製の橋台だけが残っていましたが、平成24(2012)年、都道の建設に伴い、橋台の上に「ぎんなん橋」が設置されました。この橋台跡は、工場への引込み線の遺構で唯一残った戦争遺跡です。

中島飛行機武蔵製作所 第一青年学校

概要

武蔵野市立第四中学校は、戦時中、中島飛行機武蔵製作所の第一青年学校があった場所です。青年学校とは、国民学校高等科(14歳)を終えた青少年に職業訓練などを行うために設置された教育機関で、工場に勤務していた少年工(養成工)は、この青年学校に通いながら工場で働いていました。武蔵製作所に対する米軍の攻撃により、昭和20(1945)年4月2日の夜間空襲では、第一青年学校の寮が焼失し、校舎も被害を受けました。

中島飛行機武蔵製作所 工場正門跡

概要

現在、高齢者総合センターがある場所には、当時、中島飛行機武蔵製作所の正門入口がありました。当時、この正門から出入りできる社員は、工場の幹部クラスだけと言われており、一般の従業員は、別の入口から、工場敷地内に数キロメートルにおよび張り巡らされていた地下道を通り各職場に通っていました。

源正寺「倶會一處」の碑

概要

倶會一處(くえいっしょ)とは、多くの人々がともに一か所に集まり会うこと、また、この世での縁は別々でも、浄土で再び会うことができるという意味です。源正寺には、空襲で亡くなられた引き取り手のいない身元不明の遺骨が残り、慰霊のため、昭和23(1948)年に関係者の手によって、「倶會一處」の碑が建立されました。 墓地内には、爆撃や機銃掃射で傷ついた墓石がありますが、ご遺族の意向もあり「空襲被害の証言者」として現在もそのまま残されています。

東京スタジアムグリーンパーク球場跡

概要

米軍による攻撃で壊滅的な被害を受けた中島飛行機の旧東工場は戦後解体され、昭和26(1951)年5月に「東京スタジアムグリーンパーク球場」が完成しました。しかし、球場内の砂ぼこりがひどかったことと、都心からの交通の便が悪かったことなどから、わずか1シーズンで閉鎖されました。少しくぼ地となっている辺りが球場のグラウンド跡で、周辺のカーブのある道路などに当時の面影が残されています。

延命寺 平和観音菩薩像と250キログラム爆弾の破片

概要

延命寺は、中島飛行機武蔵製作所から200メートルほどに位置していたため、境内に爆弾が落ちるなどの被害を受けました。関前をはじめとする檀家さんに犠牲者が多く、33回忌を機に浄財を集め、1977(昭和52)年、境内に平和観音菩薩像を建立しました。

檀家さんなどが所蔵していた鉄かぶとや防空頭巾などの資料を集め所蔵し、250Kg爆弾の破片も展示しています。

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