教育長通信「大河」

令和7年4月1日付けで、武蔵野市教育長として着任した吉原 健(よしはら たけし)と申します。
これから、教育長としての私の日ごろの思いや考えを教育長通信「大河」という形で市民の皆様と共有できればと思っています。「大河」には、大きな流れのような教育の発展・地域の教育を広く包括する大きな視野・教育の未来に向けた大きな可能性という意味を込めています。
ぜひご覧ください。
第9号 鏡の法則
人間には自分の心の状態と同じものを探す習性があり、これを【鏡の法則】というそうです。
たとえば自分の心が満たされていると、相手の長所も見えるようになり、それを言葉にすることで相手の心もまた満たされるようになるということです。
自分が心のうちに悩みや不安を抱えていると、どうしてもネガティブな言葉が口から出やすくなります。その結果、周囲に対してもネガティブな言葉や攻撃的な言葉を発してしまうことはないでしょうか。逆に、自分の心が安心感や期待感に包まれているときには、相手に対しても温かい言葉やポジティブな言葉かけをしていることが多いと思います。
特に教師や保護者は、そのときの自分の心のあり様が子どもへの言葉かけを左右していないかどうかを振り返ってみる必要があります。
言葉というものは、言葉を受け取る側への効果と同時に、言葉を発信する側への効果もあるといわれます。なぜなら言葉を発すると、他ならぬ発した本人自身の耳にも入っているからです。教師として日頃子どもにどんな言葉かけをしているのかが、教師としての自身の姿を形作っているともいえます。つまり<言葉が人をつくる>のです。
以前読んだ本に[子どもの自己肯定感を下げる3つの言葉]というのが書かれていました。
それは、「ちゃんとしなさい」、「早くしなさい」、「しっかり勉強しなさい」の3つでした。この言葉は発している本人自身の行動を縛る言葉でもあります。つまり、「~ねばならない」という観念でその人を縛っていくのです。
一方、[子どもの自己肯定感を引き上げるマジックワード]というものもあるそうです。
それは、「すごいね」、「さすがだね」、「いいね」、「なるほどね」、「ありがとう」、「うれしい」、「たすかった」などの言葉です。つまり、子どものマイナス面を減らすことを考えるよりも、プラス面を認めるようにすることが大切だということです。
教師自身が自分の自己肯定感を上げることで、子どもたちの自己肯定感も上がっていくでしょう。そのコツとして、子ども一人一人の長所や強みに目を向けるように努力したいと思います。自分自身や相手の欠点や短所を直していくことはなかなか難しいですが、自分自身の心のもち方を変えるだけで相手の心や行動を変えることはできるのではないでしょうか。
参考図書:「鏡の法則(野口嘉則著)」サンマーク出版
第8号
学校文化を創り出す
何年も会っていなくても、「あの人は○○さんだ…」とわかるのは、その人の顔を見なくても、たとえばその人の声であったり、歩き方であったり、何気ないしぐさであったりします。いわば、その人が身に纏っている「空気」と言ってよいかもしれません。こうした空気は長い時間を経たとしてもあまり変わらないと感じています。
私は、学校にもそれぞれの学校の‘空気’のようなものがあると思っています。
初めて訪れる学校でも、正門から入り、昇降口で靴を履き替え、階段を上がって上の階に行き、いくつかの教室や職員室の前を通り、廊下の掲示物や作品を見ながら、校長室にたどり着くころには、何となくその学校の雰囲気が伝わってくるのです。
明るく活気にあふれた雰囲気、整然と落ち着いた雰囲気、何か重苦しい雰囲気、雑然として気が休まらない雰囲気など…直感的に身体感覚で感じ取るものがあります。
それは教室も同じです。校長時代、一日に何度も授業中の教室を巡りましたが、一歩教室に入って授業や子どもたちの様子を見ていると、その教室空間が纏っている空気を感じます。
清潔感にあふれた明るい教室、子どもが安心して心と身体を開いている教室、自由に意見が言い合える雰囲気を感じる教室がある一方、何か硬く閉じた雰囲気を感じることもありました。
こうした雰囲気は日によっても異なることもありました。良くも悪くも子どもの変化のサインを感じることも少なからずあったのです。
以前の職場でお世話になったPTA会長さんは、区内でスポーツ店を営んでおり、仕事柄区内の多くの学校の職員室を訪れる機会がありました。その会長さんがよく言っていたのは、「学校によって職員室の雰囲気がかなり違いますね…。何かよそよそしい雰囲気の学校もあれば、いつ行っても明るい雰囲気の学校もあります…。」ということです。気がつかないうちにいろいろな人に学校が的確に評価されていることを感じました。
教室や職員室はその学校の文化を映し出す鏡だと思っています。それぞれが安心して過ごせる居場所になっていること、自由に自分の気持ちや意見を言い合えること、そして自由な中にも規律が保たれていること…そんな場所であることが求められているのです。
こうした雰囲気は誰か一部の人がつくるものではなく、子どもや教職員が協働して創り上げていくべきものだと思います。「どんな学校にしたいのか?」という願いや思いをしっかり共有して、一人一人が組織文化を担う当事者であることを意識していきたいと考えています。
[弱いロボット]の思考
以前、日本科学未来館で開催された[弱いロボット展]を見学に行ったことがあります。
[弱いロボット]は、自分の中にすべての機能を抱え込むのではなく、半ば周囲にゆだねてしまうのです。すなわち常に他者の存在を予定し人間が手助けすることで、新たな価値が生まれることを目指したデザインです。豊橋技術科学大学教授の岡田美智男さんが中心となって、この新たなデザインを開発しました。
例えば、<ゴミ箱ロボット>というものがあります。このロボットは、ゴミを認識すると、人のいる方にヨタヨタとすり寄っていき、人の近くまで来るとペコっとおじぎをします。
そうすると、人は「ゴミを拾ってほしいのかな?」と察して、つい拾ってあげるのです。すると、まるでお礼をしているかのように、もう一度ペコリとお辞儀をするのです。
また<アイ・ボーンズ>というロボットもあります。これは、もじもじしながら、恐る恐る手を出したり、引っ込めたりしながら、ティッシュを手渡そうとするのです。そして、見るに見かねて近くの人がティッシュを受け取ってあげると、小さくお辞儀を返してくれるのです。
考えてみると、人間の赤ちゃんも一人では何もできない弱い存在ですが、「泣く」という手段によって、おなかがすけばミルクを手に入れ、おむつが気持ち悪くなれば交換してもらうことができます。自分でできなくても、他者のアシストをうまく引き出すことで、結果として目的を達成することができるのです。
私たち人間は、単体で完結しているわけではなく、むしろ周囲の環境との相互関係の中で一つのシステムをつくっていると考えられます。
[弱さ]を内に隠さずさらけ出すことは、そこに関わりの余白が生まれることであり、さらにお互いの不完全さを補い強みを引き出し合える関係性を生み出すともいえます。
私は、教育の役割も同じように考えられると思っています。つまり、一人で何でもやってしまうのではなく、欠点や弱さを補い合うネットワークを築く力を子どもたちに身に付けることが、これからの社会ではより求められるということです。この支え合いのネットワークは、強さとしなやかさを生み出し、困難を乗り越える力へと進化していくと信じています。
まずは、教師や大人がモデルとなって、自分の弱さや欠点を謙虚に受け入れ、勇気をもって子どもたちに開示していく姿勢も必要になるのではないでしょうか?
第7号 子どもへの敬意
「リスペクトする」という言葉は、カタカナ表記の日本語として私たちの普段の生活の中に広く浸透しています。「リスペクト」は、自分にはない優れた資質や能力をもっている人を褒め称える特別な意味で使う場面が多いと感じています。
しかし、英語のrespectがもつ本質的な意味は、『相手がもっている価値観を認め、それを大切にして相手に対する敬意を払う』ということだそうです。
この背景には、その人自身の考え方や価値観、信条やライフスタイルなど、その人だけに属する「個人の領域」を認め、尊重するという欧米の文化があるといわれます。今の言葉でいえば、「多様性を尊重する」という言葉に近いと考えます。これは、個人の考えより集団の空気を優先する傾向の強い日本の文化とは異なるようです。
私は、親や教師も「子どもをrespectする」ことをもっと大切にするべきだと考えています。
それは子どもを好き放題にさせることではなく、子ども自身がその子なりの意見や感情をもっていることを受け止める行為です。子どもの意見を軽く見たり、聞き流したり、否定したりすることなく、どんな些細な意見も大切なものとして、親や教師が真摯に受け止める姿勢を示すことです。
私自身も生徒たちと共に過ごした学校生活の中で、一人一人の生徒がふと見せてくれた優しさや思いやり、勇気ある言動、生徒のもつ高い潜在力や創造力に心から敬服したことがたくさんありました。そんな時は、生徒と教師という立場を超えて、一人の人間としてその生徒に対して心の底から敬意を表する気持ちになりました。
日本を代表する国語教育研究家として知られる大村はま先生(実は中学時代の私の恩師でもあります)は、その著書の中でこうお話しされています。
『子どもはほとんど全部教師よりずっと優れていると思って間違いなしです。そういう敬意といいますか、尊敬を心からもって、この宝物を大切にしたいと思います。』さらに大村先生は、『「甘やかし」と「敬意」とはまったく違うと思います』とも言い切っています。
教師がこうしたrespectする姿勢を見せることは、子どもたち自身が周りの友達や大人の意見や考えを尊重することにもつながっていくはずです。「All teachers respect our students」という学校文化をすべての教職員で育てていければ素晴らしいと思っています。
参考図書:「教えるということ(大村はま著)」ちくま学芸文庫
第6号 ネガティブ・ケイパビリティ
最近、「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)」という言葉をよく聞くようになりました。この意味は、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」、あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」といわれています。
これまでは、問題が生じれば迅速かつ的確に対処する能力としての「ポジティブ・ケイパビリティ(positive capability)」の方が、私たちにとって馴染みのある概念でした。
そして、教育や子育ては、特にこの「ポジティブ・ケイパビリティ」が支配していた世界といってもいいでしょう。いかに早く、正確に、そして効率的に学習内容を定着させられるか…ということに、親や教師もとらわれていた面があると感じています。
学習だけでなく、たとえば不登校という事象についても、子ども本人にとってマイナスの状況と捉え、学校復帰を急がせる傾向もかつてはあったと思います。
しかし、今は不登校に対する見方も多面的であり、「本人が選び取った避難所」などの考え方も許容されています。そして、わが子が自ら折り合いをつけて新たに進む道を見出す時が来るまで、親や教師が子どもの変容や成長をじっと待って共に見守る姿勢も大切になっています。
精神科医の帚木蓬生氏は、「ポジティブ・ケイパビリティ」のみを求めていくと、得てして表層にある問題のみをとらえて、深層にある本当の問題を見逃してしまう、対象の本質を見失ってしまうことを危惧しています。一時期流行った「鈍感力」などの言葉も、物事に対して敏感に反応し過ぎたり、急いで解決し過ぎたりする態度を戒め、自分の信念に基づいて、じっくりと本質や対局を見極めていこうとする態度であると考えます。
学校や教師にとっても、問題解決能力を有すること以上に、性急に問題を解決しないで不安定さや曖昧さにも耐える能力、つまり「ネガティブ・ケイパビリティ」があるのかが問われる時代になってきていると私は感じています。正解を求めて急いで解決しなくても、混沌とした状態にもじっと持ちこたえていく…そんな態度を私たち大人も身に付けられるように視点を転換していきたいと思っています。
参考図書:「ネガティブ・ケイパビリティ(帚木蓬生著)」朝日新聞出版
第5号 責任とリスポンシビリティ
哲学者の鷲田清一氏が「責任」と「リスポンシビィリティ」について興味深い考察をしていました。「責任」という言葉は、「(責任を)問われる」「(責任を)取らされる」といった受け身の感覚を伴います。組織や集団の一員としての覚悟や使命感も滲み出ている感じです。このように日本では、「責任」は“相応の重み”をもって受け止められている言葉です。
一方、「責任」を英語で表した「responsibility」の語源を読み解くと、「respond」と「ability」で構成されています。つまり、「相手の求めや促しに、いつでも応じる用意がある」ということです。言い換えると、「相手が求めているものを自然に受け止めて処理できる力」とも言えます。
このことを学校や教師に当てはめて考えてみます。
「教師としての使命や責任」という言葉をよく聞きますが、ともすると必要以上に教師の気負いや作為につながってしまうことも懸念してしまいます。「子どものために何としても~するべきだ」「子どものために~しなければならない」といった感覚です。この気持ちが高じ過ぎると、子どもにとって心理的な負担感や圧力を感じてしまうことがあるかもしれません。
鷲田氏は、ケアの世界では、援助者との関係性には「ほどよい距離」が必要だといいます。
教師と子ども、保護者と子どもの間にも、こうした距離感は大切になると考えます。過剰な干渉や放任は子どもの自立や成長にとって妨げになることもあります。教師や親にとっては、「待つ」姿勢や「見守る」姿勢が問われているのではないでしょうか。
もう一つの視点として、教師と子ども、親と子どもという直線的な関係だけでなく、「ナナメ」の関係として存在する他者が必要だと考えます。昔は、家族や地域社会の中にこうした役割を担う人が身近にいました。共に暮らす祖父母であったり、近所のおじさん、おばさんであったりです。しかし今はこうした他者が子どもたちの身近な存在として見えにくくなっています。
子どもの成長のために必要な第三の他者の存在を願うことは難しいですが、たとえば地域の行事やボランティア活動などに参加すれば、異年齢や異世代の方と交流する機会が生まれます。学校や家庭では難しい多様な価値観に触れられることは、子どもにとって新たな発見や救いをもたらすこともあるはずです。こうした「多様性を保障する教育活動」を意図的に仕組んでいくことも益々重要な時代になると思っています。
参考図書:「パラレルな知性(鷲田清一著)」晶文社
第4号 「さわる」と「ふれる」
作家で美学者の伊藤亜紗氏は、著書『手の倫理』の中で興味深い考察をしていました。それは、傷口に[さわる]と傷口に[ふれる]という二つの言葉の違いについてです。
伊藤氏によれば、傷口に[さわる]と言われると、痛くて反射的に防御したくなるけれど、傷口に[ふれる]となると、相手への配慮や気遣いが含まれていて、ふれられる人も「痛いかもしれないけれど、ちょっと我慢してみようかなという気になる…」というのです。
私もなるほど!と共感しました。[ふれる]という言葉には、どこか内側に向かう信頼や、双方に共振するいたわりの予感が呼び起こされ、力が蓄えられるイメージがあるのです。
私も他の例で考えてみましたが、たとえば相手の気に[さわる]といえば、相手を嫌な気持にさせたり、相手の感情を害したりするといった意味があります。
一方、相手の気持ちに[ふれる]というと、相手にそっと寄り添ったり、相手に共感したり、相手の感情を優しく包み込んだりする…といった意味になるのです。日本人の美徳といわれる「相手のことを察する文化」も、この[ふれる]感情に近いのではないかと思います。
コロナ禍以来、日本社会で急激に失われてきているのは、この[ふれる]という営みではないでしょうか。当時医療従事者やエッセンシャルワーカーの方々に向けられた心ない言動、偏見や差別に満ちた眼差し、これらは相手の心に土足で踏み込むような行為であり、相手の傷口を直接[さわる]行為そのものだと思います。
こうした大人社会のあり様は、当然のことながら子どもたちの世界にも負の影響を与えます。SNSでは攻撃的な言葉の数々が、子どもの心を容赦なく「さわり」続けるのです。さらにSNSの文化は、言葉の饒舌さや即効性に価値が置かれ、本来言葉がもつ豊かさや情感からは離れ続けています。詩人の長田弘氏も、『言葉の豊かさとは、美辞麗句ではなく、限られた言葉にどれだけ自分を豊かに込められるかどうかである』と言っています。
実は、言葉の余韻や沈黙の中にこそ真実が隠れているのであり、私たちは[ふれる]という感覚を取り戻す必要があるのではないでしょうか?毎日子どもに接する親や教師の言動や態度が、子どもの心に日々[ふれる]ことにより、彼らの安心感や自己肯定感につながっていくことをしっかり心に刻みたいと思います。
参考図書:「手の倫理(伊藤亜紗著)」講談社選書メチエ
第3号 学習する学校
教師の仕事について考えてみます。教師は、知っていることを子どもに教えることが仕事なのでしょうか。私は、教師は子どもにとって【学びのモデル】となるべき存在だと思っています。子どもにとって真に尊敬すべき先生とは、必ずしも子どもより多くのことを知っている人とは限らないはずです。
教師はその人自身も<学び手として未だ途上にある人>だと考えています。
自分が知らないということを自覚している人、知らないことを知りたいと願い、知ろうとする努力を粘り強く続けられる人が教師であるべきだと思っています。教師が自ら教材や未知の課題に向かう知的好奇心がやがて子どもにやる気を起こさせ、教師の情熱が子どもの想像力に火をつけるといえないでしょうか。子どもと一緒に学ぶことに教師自身も夢中になり、喜んだりするからこそ、その人は先生として尊敬され、その経験こそが大切にされるべきなのです。
教師自身にも問うべき問いがあり、共に問いかけることが教師と子どもを“平等な存在”にします。授業という営みにおいては、子どもも教師もその一部として生きているのです。
こうした考え方に立つと、学校という存在も、機械や道具として存在しているのではなく、【生きたシステム】として存在していると考えます。
私たちの身体はいうなれば川のようなもので、川岸がそこを流れる水を支配するように新たに流れる物質を取り込み、つねに絶えることなく新たに組織し直されるのです。
【生きたシステム】としての学校も、継続して成長し進化し続ける存在なのです。
大事なことは、子どもや教職員、保護者や地域の方たちが「この学校の目指す姿は何か?」「この学校がよりよく成長するために何が必要なのか?」を常に問い直すことが必要だと思っています。私たちはすべて学校というシステムの一部であり、学校に関わるすべての人たちが学び続けることによってのみ成長が保障されるのです。
私たち一人一人は、生きたシステムとしての学校の一部としてどのように振る舞うべきかを真剣に考えていく必要があります。この問いは、子どもや保護者を含めたすべての学校関係者に向けられるべき問いです。学校が【学び続ける組織】になることで、教師と子ども、子ども同士、教師と保護者などすべての関わりがお互いを排除しない開かれたものになり、それぞれが謙虚に学び合う姿勢こそが人と人とのつながりや信頼を回復していくと信じています。
参考図書:「学習する学校(ピーター・M・センゲ著)」英治出版
第2号 『わかる』ということ
「あなたの気持ちはよくわかるよ…」「いつものあなたらしくないね…」「あなたのことは私が理解しているから大丈夫だよ…」こんな言葉かけを子どもにしたことはないでしょうか?
私自身、かつて場面や状況によっては、こうした言葉がまったく相手の心に届かず、無力感を感じたことがしばしばありました。
さてこんな問いについて、時々考えてみることがあります。
それは、教師としての経験やスキルを積み重ねていけば、子どもの心が「わかる」ようになるだろうか?という問いです。私はその答えはYESでありNOでもあると思います。
一見矛盾しているようですが、子どもの心が「わかる」ようになるためには、子どもの心が「わからない」と気付くことがまずは大切なのではないかと考えています。つまりこの問いは、教師としての経験やスキルとは異なる次元で語られるべき問いなのではないでしょうか。
以前、哲学者の池田晶子氏が、著書の中でこんなことを書かれていました。
『患者は、医者にはわからない考えや感覚や感情をもっている。自分にはわからないそれらについて、「なぜこの人はこんな風に考えるのか」「なぜこの人はこう感じざるを得ないのか」それをわかろう、わかってあげようとするのが医者の仕事なのだ…(後略)』
子どもと教師の関係についても、これと同じことがいえるのではないかと思います。
しかし、このとき教師がいつも「自分がわかっているわかり方」によってのみ、子どものことをわかろうとするならば、やがて子どもは教師に対して心を閉ざしてしまうかもしれません。
言い換えれば、そこに子どもと教師の<対話>が成立することはないのでしょう。
池田氏は、さらに『わからないものをわかることができるのは、実は「わかろう」という不断の意思でしかない…』とも言っています。それは私なりに解釈すれば、共感であり、思いやりであり、優しさに他ならないと思います。
今の社会の中で私たちに求められているのは、相手のことをわかろうとする意志だと思います。そう考えると、子どもたちが一日の中で最も多くの時間を過ごす舞台である学校や教師の役割や責任は極めて重いものだといえるでしょう。「わからない」ということが「わかる」からこそ、人はそれを何とか知ろうと努力する、その営みこそが学びの意味だと考えています。
参考図書:「残酷人生論(池田晶子著)」毎日新聞社出版
第1号 『有用性』と『至高性』
以前読んだ本の中で、『有用性』と『至高性』について書かれていました。
『有用性』とは、「役に立つこと」です。私たち人間は、これまで『有用性』を求めて、科学技術や文明社会を進化させ、絶え間ない発展を成し遂げてきました。そのおかげで、私たちの社会は便利になり、誰もが合理的な生活を享受できるようになりました。
一方で、ともすると『有用性』にとらわれて、役に立つことばかりを重宝しすぎる傾向もあったのではないかと思います。役に立つがゆえに価値のあるものは、役に立たなくなった時点で価値を失ってしまうともいえます。
一方で、『至高性』とは、「役に立つか役に立たないかに関わらず価値のあるもの」を意味します。日常の中で、「至高の瞬間」とは、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせてくれる瞬間です。たとえば、小さな子どもがいる人は、家に帰って見る「わが子の安らかな寝顔」であったり、仕事を終えて家路を急ぐ道すがら見上げる「月の美しさ」であったり、疲れた体に染み込む「一杯のビール」の美味しさかもしれません…。
教師の仕事でいえば、教室や廊下に溢れる子どもの笑顔やおしゃべり、子どもと交わす日々の何気ない会話やおしゃべり、ノートや問題に向き合う真剣な子どもの表情などに、真に価値のあるものが潜んでいるのかもしれません。子どもと教師で共有し合える価値のあるものは、日常の何気ない生活の中にいつも埋め込まれているのではないかと思っています。
現在のAIやロボットの加速度的な発達は、真に価値のあるものについて私たちに考えさせてくれます。AIやロボットが人間を超える日もやがて来ると言われる学説もありますが、人間の価値はそもそも『有用性』にあるのではなく、「私たちが生きていること」それ自体に大いなる価値があると思っています。
『至高性』が目指す「物事の中に直接の喜びを見出すこと」をもっと大切にする必要があるのではないでしょうか。フランスの小説家サン・テグジュペリの名作[星の王子様]の中にも、「大切なものは目に見えない…」という有名な言葉があります。忙しい日々の日常に追われて、真に大切な価値のあるものを見失わないようにしたいものです。
参考図書:「人工知能と経済の未来(井上智洋著)」文春新書
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