教育長通信「大河」

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ページ番号1052069  更新日 2025年10月3日

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教育長写真

令和7年4月1日付けで、武蔵野市教育長として着任した吉原 健(よしはら たけし)と申します。

これから、教育長としての私の日ごろの思いや考えを教育長通信「大河」という形で市民の皆様と共有できればと思っています。「大河」には、大きな流れのような教育の発展・地域の教育を広く包括する大きな視野・教育の未来に向けた大きな可能性という意味を込めています。

ぜひご覧ください。

第3号 学習する学校

教師の仕事について考えてみます。教師は、知っていることを子どもに教えることが仕事なのでしょうか。私は、教師は子どもにとって【学びのモデル】となるべき存在だと思っています。子どもにとって真に尊敬すべき先生とは、必ずしも子どもより多くのことを知っている人とは限らないはずです。

教師はその人自身も<学び手として未だ途上にある人>だと考えています。

自分が知らないということを自覚している人、知らないことを知りたいと願い、知ろうとする努力を粘り強く続けられる人が教師であるべきだと思っています。教師が自ら教材や未知の課題に向かう知的好奇心がやがて子どもにやる気を起こさせ、教師の情熱が子どもの想像力に火をつけるといえないでしょうか。子どもと一緒に学ぶことに教師自身も夢中になり、喜んだりするからこそ、その人は先生として尊敬され、その経験こそが大切にされるべきなのです。

教師自身にも問うべき問いがあり、共に問いかけることが教師と子どもを“平等な存在”にします。授業という営みにおいては、子どもも教師もその一部として生きているのです。

こうした考え方に立つと、学校という存在も、機械や道具として存在しているのではなく、【生きたシステム】として存在していると考えます。

私たちの身体はいうなれば川のようなもので、川岸がそこを流れる水を支配するように新たに流れる物質を取り込み、つねに絶えることなく新たに組織し直されるのです。

【生きたシステム】としての学校も、継続して成長し進化し続ける存在なのです。

大事なことは、子どもや教職員、保護者や地域の方たちが「この学校の目指す姿は何か?」「この学校がよりよく成長するために何が必要なのか?」を常に問い直すことが必要だと思っています。私たちはすべて学校というシステムの一部であり、学校に関わるすべての人たちが学び続けることによってのみ成長が保障されるのです。

私たち一人一人は、生きたシステムとしての学校の一部としてどのように振る舞うべきかを真剣に考えていく必要があります。この問いは、子どもや保護者を含めたすべての学校関係者に向けられるべき問いです。学校が【学び続ける組織】になることで、教師と子ども、子ども同士、教師と保護者などすべての関わりがお互いを排除しない開かれたものになり、それぞれが謙虚に学び合う姿勢こそが人と人とのつながりや信頼を回復していくと信じています。

 

参考図書:「学習する学校(ピーター・M・センゲ著)」英治出版

第2号 『わかる』ということ

「あなたの気持ちはよくわかるよ…」「いつものあなたらしくないね…」「あなたのことは私が理解しているから大丈夫だよ…」こんな言葉かけを子どもにしたことはないでしょうか?

私自身、かつて場面や状況によっては、こうした言葉がまったく相手の心に届かず、無力感を感じたことがしばしばありました。

さてこんな問いについて、時々考えてみることがあります。

それは、教師としての経験やスキルを積み重ねていけば、子どもの心が「わかる」ようになるだろうか?という問いです。私はその答えはYESでありNOでもあると思います。

一見矛盾しているようですが、子どもの心が「わかる」ようになるためには、子どもの心が「わからない」と気付くことがまずは大切なのではないかと考えています。つまりこの問いは、教師としての経験やスキルとは異なる次元で語られるべき問いなのではないでしょうか。

以前、哲学者の池田晶子氏が、著書の中でこんなことを書かれていました。

『患者は、医者にはわからない考えや感覚や感情をもっている。自分にはわからないそれらについて、「なぜこの人はこんな風に考えるのか」「なぜこの人はこう感じざるを得ないのか」それをわかろう、わかってあげようとするのが医者の仕事なのだ…(後略)』

子どもと教師の関係についても、これと同じことがいえるのではないかと思います。

しかし、このとき教師がいつも「自分がわかっているわかり方」によってのみ、子どものことをわかろうとするならば、やがて子どもは教師に対して心を閉ざしてしまうかもしれません。

言い換えれば、そこに子どもと教師の<対話>が成立することはないのでしょう。

池田氏は、さらに『わからないものをわかることができるのは、実は「わかろう」という不断の意思でしかない…』とも言っています。それは私なりに解釈すれば、共感であり、思いやりであり、優しさに他ならないと思います。

今の社会の中で私たちに求められているのは、相手のことをわかろうとする意志だと思います。そう考えると、子どもたちが一日の中で最も多くの時間を過ごす舞台である学校や教師の役割や責任は極めて重いものだといえるでしょう。「わからない」ということが「わかる」からこそ、人はそれを何とか知ろうと努力する、その営みこそが学びの意味だと考えています。

 

参考図書:「残酷人生論(池田晶子著)」毎日新聞社出版

第1号 『有用性』と『至高性』

以前読んだ本の中で、『有用性』と『至高性』について書かれていました。

『有用性』とは、「役に立つこと」です。私たち人間は、これまで『有用性』を求めて、科学技術や文明社会を進化させ、絶え間ない発展を成し遂げてきました。そのおかげで、私たちの社会は便利になり、誰もが合理的な生活を享受できるようになりました。

一方で、ともすると『有用性』にとらわれて、役に立つことばかりを重宝しすぎる傾向もあったのではないかと思います。役に立つがゆえに価値のあるものは、役に立たなくなった時点で価値を失ってしまうともいえます。

一方で、『至高性』とは、「役に立つか役に立たないかに関わらず価値のあるもの」を意味します。日常の中で、「至高の瞬間」とは、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせてくれる瞬間です。たとえば、小さな子どもがいる人は、家に帰って見る「わが子の安らかな寝顔」であったり、仕事を終えて家路を急ぐ道すがら見上げる「月の美しさ」であったり、疲れた体に染み込む「一杯のビール」の美味しさかもしれません…。

教師の仕事でいえば、教室や廊下に溢れる子どもの笑顔やおしゃべり、子どもと交わす日々の何気ない会話やおしゃべり、ノートや問題に向き合う真剣な子どもの表情などに、真に価値のあるものが潜んでいるのかもしれません。子どもと教師で共有し合える価値のあるものは、日常の何気ない生活の中にいつも埋め込まれているのではないかと思っています。

現在のAIやロボットの加速度的な発達は、真に価値のあるものについて私たちに考えさせてくれます。AIやロボットが人間を超える日もやがて来ると言われる学説もありますが、人間の価値はそもそも『有用性』にあるのではなく、「私たちが生きていること」それ自体に大いなる価値があると思っています。

『至高性』が目指す「物事の中に直接の喜びを見出すこと」をもっと大切にする必要があるのではないでしょうか。フランスの小説家サン・テグジュペリの名作[星の王子様]の中にも、「大切なものは目に見えない…」という有名な言葉があります。忙しい日々の日常に追われて、真に大切な価値のあるものを見失わないようにしたいものです。

 

参考図書:「人工知能と経済の未来(井上智洋著)」文春新書

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