ルーマニアの歴史
ルーマニアの基本情報
ルーマニアは変化に富んだ地形と肥沃な土地に恵まれ、昔から農業が盛んでした。また石油・天然ガス・貴重な金属類などの資源にも恵まれています。しかし、東西文化のぶつかり合う位置であることなどから、長い間、諸大国の権力闘争に翻弄されてきた歴史を持っています。
- 国旗
左から青、黄、赤の三色旗。
色にはそれぞれ意味があり、青は空、黄は穀物・鉱物、赤は血の色、国民の勇気・独立闘争を象徴しています。 - 面積 238,500平方キロメートル (日本の本州と同等)
- 人口 約19,500,000人
- 首都 ブカレスト (約200万人)
地方都市 300万人以上の地方都市は、クルージュ、イアシ、ブラショフ、コンスタンツァ、ティミショアーラ - 宗教 ルーマニア正教 約85%/カトリック 5%/プロテスタント他
- 民族 ルーマニア系90%/ハンガリー系6%/その他ドイツ系、ロマ系など。
- 通貨 レイ(LEI)
フロリン ポペスクさんのルーマニア歴史講座
ルーマニアの国情報や歴史をルーマニアと日本どちらにも精通している、現地ガイドのポペスクさんが解説します。
日本とルーマニアの国土の比較
ブカレストは北緯45度辺りで、日本の最北端よりも北にあります。
ルーマニア地図
1960年代の地図です。カルパチア山脈が「つの字」に形成しています。
平野部、丘陵地、山間部は約3分の1ずつあります。
40%が農地として使えます。

各地方の民族とその人口の推移
1910年代に、ハンガリー系100万人、ドイツ系90数万人、ユダヤ系90万人近くがいました。
1990年代にはユダヤ系、ドイツ系はほとんどいなくなっています。
【国(民族)別の人口の推移一覧】
国名 (民族) | 2002年 (単位:人) | 2011年 (単位:人) |
---|---|---|
ルーマニア | 17,700,000 | 16,793,868 |
ハンガリー | 1,431,807 | 1,227,623 |
ロマ | 535,140 | 621,573 |
ウクライナ | 61,098 | 50,920 |
ドイツ | 59,764 | 36,042 |
ロシア | 35,791 | 23,487 |
トルコ | 32,098 | 27,698 |
タタール | 23,935 | 20,282 |
セルビア | 22,561 | 18,076 |
スロバキア | 17,226 | 13,654 |
ブルガリア | 8,025 | 7,336 |
クロアチア | 6,807 | 5,408 |
ギリシャ | 6,472 | 3,668 |
ユダヤ | 5,785 | 3,271 |
中国 | 2,243 | 2,017 |
日本 | 310 | 不明 |
その他 | 16,119 | 18,524 |
未詳 | 1,941 | 1,236,810 |
欧州とルーマニア
中世の西欧からカルパチア山脈やドナウ川は、移住民族の侵略を防ぐのに適した地形とみなされました。そういった理由から、現在のポーランド、ルーマニア、ブルガリアがある地域が侵略を防ぐ緩衝として考えられました。
13世紀のハンガリー国王はフランスのアンジュ公爵となりました。
14世紀前半にワラキア公国、モルドヴァ公国が成立しました。しかし、いずれも西のハンガリー王国と北のポーランド王国という強国に常に脅かされていました。
14世紀末、ドナウ川を越えて北上してきたオスマン帝国によってワラキア公国が征服され、さらに15世紀前半にモルドヴァ公国も征服されました。ワラキア公国ではドラキュラ伝説で有名なヴラッド=ツェペシュ公が激しくオスマン帝国の支配に抵抗しました。しかし、オスマン帝国の勢力が最盛期であったため、15世紀末にはモルドヴァ公国とともにオスマン帝国の属国として従属させられました。
主な地形と地方
移住民族対策として、トランシルバニア、ワラキア、モルドヴァがハンガリー王国によって開国されました。
トランシルバニアには11世紀にハンガリーの1種族であるセケイが入植してから、13世紀前半からドイツ系のサクソン族が入植しました。
トランシルバニアはハンガリーの地方であり、かつドイツ住民がいることから常にヨーロッパの一部と考えられてきました。
ワラキアとモルドヴァは15世紀に抵抗を試みたものの、15世紀後半からオスマン帝国の属国になり、18世紀初頭までポーランド、ハプスブルク帝国、タタール族に間断なく略奪されました。
ブカレスト 大主教座教会国の成立 公国の統一
ルーマニアはキリスト正教の国です。大主教座教会は、1750年頃ワラキア地方が主教管区と認められてから主教座教会として建設されています。
アレキサンドル・イオアン・クザ総裁が初めての統一公国のリーダーとなりました。
1862年に、ギリシャ正教の財産を国有化する法律を発令しました。
ルーマニアの最初の国王 カロル1世
1839年 ドイツで生まれる
1866年 ワラキア・モルドヴァ統一公国に王子として渡航 同年に「ルーマニア公国」となる
1869年 エリサベタ女王と結婚
1877年 ロシア軍と共にトルコ戦争への参戦を決める
1881年 ルーマニア王国誕生、初国王となる
1900年代にバルカン戦争で新たな領土を合併
1914年 第一次世界大戦の勃発において、内閣に反発しルーマニアは1916年まで中立。
1916年 闘病にて死去
第一次世界大戦 「大ルーマニア」の誕生
ルーマニアは1916年から東部前線で参戦し、ドイツ軍の攻略を受けて、大変苦戦しました。
トランシルバニアとワラキアがすぐに占領されてしまい、政府がモルドヴァのヤシに移りました。
1917~18年にはルーマニア軍が東部カルパチアの前線でドイツに対して対抗しました。
1918年の終戦にて、戦勝国となりました。
この戦争でオスマン帝国、ハプスブルク帝国がなくなり、ルーマニアは東欧の一人前の王国として立場を固めました。
ルーマニアはフランス、イギリス、ロシア側に従いましたが、ロシアの離脱によって東部前線で苦戦しました。最終的に戦勝国となり、トルコ帝国、ハプスブルク帝国からトランシルバニア、ドブロジャを合併でき、「大ルーマニア」が成立しました。
ブカレストにある凱旋門は、第一次世界大戦での勝利を祝福しています。

2代目国王 フェルディナンド一世とマリア女王
1922年に、新しくできたルーマニア王国の真ん中にあったアルバ・ユリアにて、国王となったフェルディナンド一世と王妃マリアの戴冠式が執り行われた。
少数民族の多い国でしたので、王族はみなを擁立することを宣伝しました。
特にマリア女王は民族文化に興味を示し、一時期正教徒になりました。
しかし、1926年に国王が死去してしまい、当時5歳であった次男ミハイが形の上で国王になりましたが、財閥の一人であったブラティアヌ首相の独裁が始まってしまいました。
第二次世界大戦後の共産党時代
1944年秋にルーマニア政府は共産党に裏切られて、ロシアに対して無条件降伏してしまいます。1945年秋に、総選挙の大規模な不正により、労働者社会党が圧勝する形になってしまいました。
1950年から農地の国有化が進められます。1962年には全国にて95%近くの農地が実質国有化されていました。所有物を奪い取られて、農民、市民たちは共産党のイデオロギーに混乱しました。
チャウシェスク政権
ルーマニアのトップ・リーダーとして、1965年にニコラエ・チャウシェスクが共産党事務局長になりました。
チャウシェスクは、共産党のトップになってからリーダーとしての才能を発揮して、一般国民において人気がありました。しかし、大規模な工業の構築などの中で大失敗に終わったものがあり、国際通貨基金などから大量の借金をしてしまいました。
また、ルーマニアを独裁したい気持ちがあまりに強く、最も大きい支援国であったロシアと離れてしまいました。
1989年末にゴルバチョフ大統領に支援を拒絶されたことをはじめ、ルーマニア国内で政変が起きてついにチャウシェスク政権が崩壊しました。
政変から30年間の今
ルーマニアは多政党の共和国です。2004年からNATOに加盟、2007年からEUに加盟しています。
平均給料は、1995年代にEUの10%未満から現在35%まで上がり、毎年上昇中です。
海外旅行が自由にでき、EU移住が自由になっています。
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市民部 多文化共生・交流課
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