大正時代の武蔵野村(むさしのむら)

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ページ番号1011334  更新日 2025年1月20日

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大正時代には、東京の中心から武蔵野村のまわりに引っ越(こ)してくる人が増(ふ)えてきました。

農村から住宅地(じゅうたくち)へ

大正時代のはじめには、武蔵野村では、繭(まゆ)、麦、陸稲(おかぼ)、芋(いも)づくりなど農業が盛(さか)んでした。しかし、そのあと中央線沿線(えんせん)の発展(はってん)にともなって住む人が増えて、畑は減(へ)っていきます。

大正6年(1917)には、「井の頭恩賜公園(いのかしらおんしこうえん)」が開園。今の「西武多摩川線(せいぶたまがわせん)」の一部、境駅(さかいえき)と府中市(ふちゅうし)の白糸台駅の間が同じ大正6年に開通。大正11年(1922)にすべての区間が開通しました。当時は、「多摩鉄道(たまてつどう)」とよばれ、多摩川でとれる砂利(じゃり)を運ぶのに使われていました。

また、大正12年(1923)には、「関東大震災(かんとうだいしんさい)」という神奈川(かながわ)や東京などで多くの家が倒(たお)れたり火事で焼(や)けてしまう地震(じしん)がおこり、被害(ひがい)の少なかった武蔵野村のまわりに多くの人が集まるようになりました。武蔵野村は東京の中心から中央線で結(むす)ばれる郊外(こうがい)にある都市に変(か)わっていきます。

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