江戸(えど)時代の武蔵野

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ページ番号1011332  掲載日 2021年2月19日

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武蔵野のようすが大きくかわっていった江戸時代の歴史を紹介します。

江戸時代から次々に開拓(かいたく)されていった武蔵野台地

わたしたちの住(す)む地域(ちいき)が大きく変(か)わるのは、江戸時代(えどじだい)に入ってからです。江戸(えど=今の東京)や近くの村々から人がやって来て、土地を切(き)り開(ひら)いて、村を作(つく)りました。吉祥寺村(きちじょうじむら)、西久保村(にしくぼむら)、関前村(せきまえむら)、境村(さかいむら)という4つの村ができたのです。西久保村には江戸の西久保城山町(にしくぼしろやまちょう=今の東京タワーの近く)の人びとが移(うつ)り住(す)んだことがわかる昔(むかし)の記録(きろく)が残(のこ)されています。4つの村の名前は現在(げんざい)でも市内の地名(ちめい)として残っています。

玉川上水(たまがわじょうすい)が作(つく)られたのもこの頃(ころ)です。多摩川(たまがわ)の水を羽村(はむら)から取(と)り入れて、江戸に住む武士(ぶし)たちの飲(の)み水としました。4つの村の中で玉川上水の水を使(つか)うことを許(ゆる)されたのは、境村と関前村の隣(となり)に新しく作られた関前新田(せきまえしんでん)の村人だけでした。多くの村人たちは、玉川上水の水をきれいにするように求(もと)められ、玉川上水とその周(まわ)りを掃除(そうじ)しなければなりませんでした。

村人たちは、畑(はたけ)で麦(むぎ)や野菜(やさい)などを作る暮(くら)しでした。作った野菜などは江戸に運(はこ)んで、江戸からは畑の肥料(ひりょう)となる人の糞尿(ふんにょう=うんちやおしっこ)を持(も)ち帰りました。また、江戸からは玉川上水沿(ぞ)いの桜(さくら)の花見や井の頭池(いのかしらいけ)に遊(あそ)びに来る人たちが次第(しだい)に増(ふ)えていきました。

鷹のイラスト
鷹狩り(たかがり)がおこなわれていました
玉川上水の写真
いまの玉川上水のようす

コラム 吉祥寺(きちじょうじ)という寺が市内にないってホント?

 本当です。昔、江戸で大火事(おおかじ)があり、本郷元町(ほんごうもとまち、今の水道橋[すいどうばし]のふきん)にあった「吉祥寺(きちじょうじ)」という寺がやけ落ちました。この近くに住む人たちが1659年に今の吉祥寺にうつり住んだから吉祥寺という名前がついたのです。というわけで吉祥寺というお寺は市内にはありません。

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