
武蔵野市の歴史は、旧石器時代(約1万5000~約3万年前)にさかのぼります。昭和37年から続く発掘調査の結果、井の頭池周辺で、石器、土器、住居などの遺物・遺構が発見されました。江戸時代になると、度重なる江戸の大火によって人々が移住し、吉祥寺村、西窪村が誕生。さらに関前村、境村もでき、4村が誕生しました。
明治22年、吉祥寺、西窪、関前、境の4村と井口新田飛地が合併し、武蔵野村が誕生しました。この年には現在の中央線の前身である甲武鉄道が開通、境停車場ができました。明治32年には吉祥寺停車場が開設され村は発展していきます。昭和3年には武蔵野町になりました。昭和13年に中島飛行機が武蔵野製作所を開設。太平洋戦争が始まると軍需工場として空襲の標的となり、周辺の民家も大きな被害を受けました。
戦争が終わった2年後の昭和22年11月3日、市制の施行によって武蔵野市が誕生しました。市では学校や保育園、上下水道、公営住宅などの社会基盤を整備し、人口も増加する中、自治体としての基礎を築いていきました。また、ごみやし尿の回収も始め、公衆衛生の改善にも取り組み始めました。 その後日本の高度成長を背景に、武蔵野市は急速な都市化を遂げていきます。昭和30年代には、都営住宅、緑町・桜堤団地建設、農地の宅地化も進み、人口は10万人を突破。都心から宅地を求めて移り住む人々が急増し、緑町や桜堤の公団住宅もこの時期に建設されました。昭和37年には現在の町名が施行。共働き世帯も増えて保育園の開園が進み、学童保育もスタートしました。
昭和40年代に入ると、市では、小・中学校の校舎の鉄筋化や体育館やプールの建設、保育園の増設などに力を入れていきます。吉祥寺では大型店舗の出店ラッシュが始まり、まちは人々でよりにぎわいを増しました。市では吉祥寺駅周辺の再開発事業に着手するとともに、武蔵境駅南口広場の計画も決定し、新たなまちづくりを進めました。 そして、全市的な自治会、町内会をもたない武蔵野市では、市民生活の基礎単位として、コミュニティ構想を打ち出します。昭和50年代に入ると、境南コミュニティセンター(コミセン)をはじめ、西久保・中央・吉祥寺東など、各地区でコミセンの整備が進んでいきます。各コミセンを管理するのは地域の住民です。また、来るべき高齢化社会に備えるべく、福祉公社も発足しました。
健康は市民生活の基盤という考えのもと、平成元年には武蔵野スポーツ振興事業団が発足し、総合体育館・温水プールが完成。福祉の面では、武蔵野障害者総合センターが発足したほか、全国初の施設となる0~3歳児とその親を対象とした「0123吉祥寺」などを整備しました。第1回国際オルガンコンクール開催や、ロシアへの自然探検隊員の派遣など、文化を通じた国際交流も盛んに行われました。
また、地域の人材や建物などの社会資源を活用することにより、地域での見守りや社会とのつながりが必要な高齢者などを支援する「テンミリオンハウス事業」が始まったほか、介護老人保健施設などが開設されました。コミュニティバス・ムーバスの路線整備も進み、市内で交通が不便な地域が解消されていきました。
平成21年、JR中央線の三鷹・国分寺間で高架化工事が完了し、市内の踏切問題が解消。また、武蔵境では、平成23年に、市民の活動の新たなる拠点「武蔵野プレイス」が誕生。さらに、吉祥寺エリアでは複合商業施設「コピス吉祥寺」がオープンします。多方向から施設や都市基盤の整備を進める中、平成25年、市の人口はついに14万人を突破します。 平成26年、武蔵境駅の鉄道連続立体交差事業が完了し、その後北口駅前広場が完成します。三鷹駅、吉祥寺駅周辺もそれぞれの特色を生かしたまちづくりが進んでいます。また、ベビーカー貸し出しサービスやいきいきサロン事業が開始され、男女平等推進センターが開設されたほか、平成29年には、ゴミ処理機能だけではなく、防災に備えた設備や発電機能を併せ持つ新武蔵野クリーンセンターが稼動を開始しました。
平成30〜31年、視覚障害者誘導用ブロックの改良などバリアフリーに重点を置いた武蔵境駅南口駅前広場のリニューアルを実施しました。 また、令和2年からは、世界的流行している新型コロナウイルス感染症による市民生活への影響を鑑みて、市民の方の命と暮らしを守るための事業を適時実施しています。 また同年から始まった第六期長期計画に基づく施策を着実に進め、高校生等の医療費助成制度の市独自実施やパートナーシップ制度の創設など、「誰もが安心して暮らし続けられる魅力と活力があふれるまち」を実現するための取り組みを続けています。