わたしらしく咲き誇る武蔵野市市勢施行75周年メッセージ

わたしらしく咲き誇る武蔵野市市制施行75周年記念メッセージ

令和4(2022)年で市制施行75周年を迎えた武蔵野市。 武蔵野市にゆかりのある皆さんから、武蔵野市そして市民の皆さんへメッセージをいただきました。

メッセージ

手塚プロダクションプランニングプロデューサー 手塚るみ子

手塚プロダクション
プランニングプロデューサー

手塚てづか るみ

Profile

プランニングプロデューサー。手塚プロダクション取締役。 手塚治虫文化祭(キチムシ)実行委員長。漫画家・手塚治虫の長女として生まれる。 広告代理店でセールスプロモーションやイベント企画に携わった後、 父親の死をきっかけに手塚作品のプロデュースを開始。 音楽レーベル「MUSIC ROBITA」を設立し手塚作品の音楽企画も制作。

自然のそばに暮らしがあり文化がある、
それが武蔵野市の魅力

私と武蔵野市のご縁は成蹊小学校へ入学したことが始まりで、大学卒業まで自由な校風と自然豊かな学び舎で大切な時間を過ごしました。 成長とともに吉祥寺で革新的な文化や流行の最先端に触れ、いろいろなものを吸収しました。 社会人になって初めて実家を出て暮らしたのも吉祥寺です。私にとっては吉祥寺がホームタウンです。

市内の住宅街を歩くことが、昔も今も好きです。歩いているだけで四季を感じることができます。キンモクセイの香りや桜、野鳥やたまにタヌキを見かけることもあります。昔のままのお屋敷や新しく建築されたモダンな建物を見つけては、変わらないものと変わっていくものの共存を楽しんでいます。また、突然に雑貨屋やギャラリーが現れるのも武蔵野市ならではです。武蔵野市らしい出会いがあり、ぶらぶら歩いているだけでも飽きないのです。

私が社会に出る時は父親から離れたいという思いが強く、父が働く業界からあえて距離を取りました。が、心では一人前になったら一緒に仕事をしたいとひそかに思っていたのですが、亡くなってしまい叶いませんでした。父の死後、改めてその影響の大きさを知り、個人的な悲しみはもちろんでしたが、社会的な喪失感の大きさに驚きました。父の死が変換点となり、父の作品を世に伝えたい、世界に伝えたい、そう思うようになりました。

手塚作品を若い人たちにいかに届けるか考えていた中で、手塚作品をトリビュートしたマーケットフェス「キチムシ」を行いました。さまざまなアーティスト、クリエイターとのコラボレーションにより、魅力的な作品・商品が生まれ、多くの人が足を運んでくれました。大衆に向けたものではなく、期間も場所も非常に限定された中でしたが、銀座でも自由が丘でも秋葉原でもなく、吉祥寺だからこそ良かったのだと感じています。

手塚作品の根元は「命」です。手塚の戦争体験からきた命のはかなさや愛しさ、自然への畏敬、人間以外の生き物から教えられる命の尊さ。パソコンもない時代に描かれた作品は、想像力を豊かに持って創作されてきたものです。科学の発展や自然の豊かさ、人間の豊かさ、このバランスが大事だということと、人間の謙虚さや他者への寛容を考えるきっかけになればと思います。

武蔵野市には、自然があり、その自然のそばに暮らしがあり、文化があります。それが武蔵野市の魅力です。そこから受け取るものを今後も創作につなげていきたいです。


*「キチムシ」は「手塚治虫文化祭」の通称で、平成27(2015)年から平成30(2018)年までの11月3日、手塚治虫の生誕日・マンガの日にちなんで開催された手塚作品くくりのトリビュートマーケットフェス。令和3(2021)年にもアトムデビュー70周年と手塚治虫デビュー75周年のダブルアニバーサリーを記念し、スピンオフ企画として開催。参加クリエイターによる思い思いの手塚キャラクター作品が人気を呼んだ。

作家 乃南アサ

作家

乃南のなみ アサ

Profile

早稲田大学を中退後、広告代理店勤務などを経て、昭和63(1988)年『幸福な朝食』が日本推理サスペンス大賞優秀作に選ばれデビュー。『凍える牙』で第115回直木賞、『地のはてから』で中央公論文芸賞、『水曜日の凱歌』で第66回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。著書に『チーム・オベリベリ』『ニサッタ、ニサッタ』『いつか陽のあたる場所で』など。

いい感じに地方色があって、
個性的で考え方が自由なお店があるのが武蔵野らしくていい

吉祥寺は不思議なまちで、道路は碁盤の目に通っているのだけど、JRはそれを斜めに突っ切っていて、 井ノ頭通りも微妙にかしいでいるので、住んでいる人は分かるのですが、 まちを訪れた人だと方向感覚が狂ってしまい、くらくら感のあるまちなんです。 私は住む前にもよく吉祥寺に来ていたのですが、いつもくらくらしてしまい、 もうくらくらしたくなかったので移り住むことにしました。坂道がなく平べったいところも気に入っています。

28歳で作家デビューをしたのですが、作家になりたいという思いはずっと持っていました。 一旦は会社勤めをしたのですが、創作の時間は取れませんでした。そんな時に、 知人から自分のお店を出したいから共同経営で手伝ってくれないかと声がかかり、 「作家を目指しているので、そのための時間を取らせてくれるなら」という条件でお店を一緒にやることになりました。 お昼の部が終わったらバイクでアパートに戻って夕方まで原稿を書き、夕方になったらお店に戻る。 夜中に自宅に戻ってまた書く、という生活を送っていました。

そんな中で書いた『幸福な朝食』が第1回日本推理サスペンス大賞で優秀作をいただき、そこから作家としてやっていくことなりました。 この時にお祝いをしたのが吉祥寺の「いせや」さんです。当時の仲間と「受賞したら2階ですき焼き、 ダメだったら1階で焼き鳥」と決めていたのですが、2階ですき焼きになりました。 ちなみに直木賞の時は、受賞の結果を「居酒屋武蔵」さんで待っていました。

武蔵野市は、学生が多かったり、スーツ姿の人ばかりでもないし地元の人ばかりでもない。 老若男女がうまく混ざりあって、1つの都市としてバランスが自然だと思うんです。 何かに偏らないことがいいのだと思います。みんなそれぞれ違う方向を向いているんだけども、 おだやかに暮らしたいというところでは一緒なので、変に規則で縛ろうとしなくても、自然に何となく、 自分たちは武蔵野市に住んでいるからその辺はちゃんとやっておこうかと思ったりとか、そういう空気があります。

まちの様子も住んでいるうちに変わってきたと思います。昔のハモニカ横丁は今みたいにきれいではなく、 闇市らしさが残っていましたし、デパートが3つあって、新宿のそれと比べると、ちょっとしょぼい感じもしましたが、 いい感じに地方色があり、私はそこが好きでした。アトレになる前のロンロンも好きだったので、 今のまちには、大きな資本が入って以前に比べ身綺麗になって人間臭さが薄くなっていくことに寂しさも感じますが、 今でもジャズバーやライブハウス、雑貨店など、個性的で考え方が自由で、 ほかにないオリジナリティのあるお店が多くあるというのが吉祥寺らしいと感じています。

武蔵野赤十字病院 院長 泉並木

武蔵野赤十字病院 院長

いずみ なみ

Profile

昭和53(1978)年東京医科歯科大学医学部卒業後、東京医科歯科大学第二内科に入局。 平成20(2008)年には武蔵野赤十字病院副院長、平成28(2016)年には同院院長に就任。 C型肝炎ウイルスが発見される以前からインターフェロン治療に取り組み、肝がんのラジオ波熱凝固療法で世界的にも知られている。

地域の皆さんが、
安心して急性期や高度医療を受けられるように

私が働く武蔵野赤十字病院では、高度急性期医療に特化した病院として、ロボット手術や腹腔鏡手術、ゲノム医療などを行っているほか、救急搬送を1年に約1万台受け入れています。さらに地域周産期母子医療センターがあり、 また、地域がん診療連携拠点病院、災害拠点病院にも指定されています。 令和7(2025)年には11階建ての新病棟が完成予定です。全室個室で12の手術室、PET-CTの導入など、 さらに機能的で充実した医療環境となります。

市内では、かかりつけ医と地域の病院との連携がうまく機能してることに代表されるように、市民の皆さんが協力し合って良いまちをつくろうという意識が高いと感じています。今後もさらに発展・充実させ、質の高い医療を市民の皆さんに提供できるように尽力していきたいです。

武蔵野市が市制施行75周年を迎えられるということですが、私も武蔵野市界隈に暮らして50年近くになります。当時から中央線沿線の中心として発展を続け、現在も住みたいまちとして非常に人気が高く、人口が増えているまれな自治体です。 特に若い人で住みたい方が多く、それはおそらく、文化的なこと、教育的なことが充実しているからだろうと思います。子どもをしっかりと育てながら、自分も良い仕事をしたいという方が多く、武蔵野市にはその環境が整っているため、ありがたいことに当院でも医療従事者の確保に苦労せずにすんでいます。

私も長く武蔵野市に暮らし、愛着を持っています。病院のある武蔵境には、赴任した当時、ブドウ園が広がっていましたが、現在はマンションが建ちまちも著しく発展したと思っています。武蔵野市で暮らしていると、まちに文化が溶け込んでいて、いろいろな方が楽しみながら暮らしていらっしゃることを実感することが多いです。これからも多様な文化に対応できるまちであって欲しいと思います。

サッカー選手 岩渕真奈

サッカー選手

岩渕いわぶち 真奈まな

Profile

平成5(1993)年武蔵野市生まれ。W杯2011優勝、ロンドンオリンピック2012準優勝、W杯 2015準優勝、W杯 2019ベスト16、東京オリンピック2020ベスト8に貢献。小学生の頃は市内クラブに所属。INAC神戸レオネッサ、イングランドのアストン・ヴィラLFCを経てアーセナル・ウィメンFCへ。

武蔵野市の皆さんに、
応援してもらえるように頑張ります

市制施行75周年おめでとうございます。

令和3(2021)年に開催された東京オリンピックは、長年目指していた大会だったので無事に開催されたことに本当に感謝しています。 一方で、この大会の結果が、女子サッカーの認知や盛り上がりを左右すると分かっていましたので、 チームとしてもっと良い成績を残すことができなかったことは悔しく思っています。 しかし、仙台で開催された有観客でのゲームには、親や友人を含め、多くの皆さんが応援に来てくださいました。 それはとてもうれしかったです。

私がサッカーを始めたのは小学校2年生の時でした。市立関前南小学校をベースに活動している関前サッカークラブに所属していたのですが、 現在の私のプレースタイルの特徴でもあるドリブルは、この時に身に付けたものです。 男子に混じってボールを蹴り、兄の練習が終わるのを待つ間、コーチをつかまえては、1対1のドリブル練習を重ねていました。

通っていたのは武蔵野東小学校でした。当時を思い出してみると、いろいろな個性を持つ友達と時間を共にしました。大人になった今でも、最高にすてきな時間を過ごせたと心から思えることの1つです。

世界の女子サッカーの進化はすごく、それに負けないように日々努力して上を目指さないといけないと思っています。そして日本人の良さである、緻(ち)密さ、一つになる力を次回のワールドカップまでに強化し、良い成績を残せるように頑張っていきたいです!

私の大好きなまち、武蔵野市の皆さんに応援してもらえるように、これからも上を目指して頑張りますので、応援よろしくお願いします。