昭和初期(しょうわしょき)の武蔵野

このページの情報をXでポストできます

ページ番号1011335  更新日 2019年6月6日

印刷 大きな文字で印刷

村から町へ。戦争(せんそう)とともに工場(こうじょう)が集まっていった昭和初期の歴史を紹介します。

はげしい空爆(くうばく)にあった武蔵野(むさしの)

 武蔵野村(むさしのむら)は昭和(しょうわ)3年(1928年)に武蔵野町となりました。当時の人口はおよそ1万3000人でした。このころから大きな会社(かいしゃ)も集(あつ)まりはじめました。昭和5年 (1930年)には、計器(けいき)メーカーの横河電機製作所(よこがわでんきせいさくじょ)がうつってきました。

 そのつぎの年、「満州事変(まんしゅうじへん)」という戦争がおこりました。日本が戦争へと向かっていくなかで、戦争のための武器(ぶき)をつくるさんぎょうが盛(さか)んになります。武蔵野にも広い土地がたくさんあったので会社(かいしゃ)が集まり、工場地帯(こうじょうちたい)になっていきます。

 昭和13年(1938年)には、飛行機(ひこうき)のエンジンをつくる工場ができました。昭和16年(1941年)に「太平洋戦争(たいへいようせんそう)」がおこると、それにあわせて工場(こうじょう)もより大きくなり、はたらく人たちもひっこしてきて、昭和18年(1943年)には武蔵野町の人口は5万6418人になりました。

 しかし、戦争がはげしくなると、武器(ぶき)をつくる工場(こうじょう)がおおかった武蔵野町は、アメリカ軍(ぐん)によるはげしい空襲(くうしゅう)を受けます。おおくの人が亡(な)くなり、そかいといって爆撃(ばくげき)のないところにひっこす人もおおく、戦争がおわった昭和20年(1945年)には、人口は4万1865人に減ってしまいました。

空襲を受ける中島飛行機武蔵製作所
空襲をうける中島飛行機武蔵製作所
(米国公文書館所蔵<べいこくこうぶんしょかんしょぞう>)

このページに関するお問い合わせ

教育部武蔵野ふるさと歴史館
〒180‐0022 東京都武蔵野市境5-15-5
電話番号:0422-53-1811 ファクス番号:0422-52-1604
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。