明治(めいじ)時代の武蔵野

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ページ番号1011333  更新日 2019年6月6日

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明治時代に、初めて武蔵野に小学校がつくられ、村ができあがり、鉄道(てつどう)も開通(かいつう)していきます。

玉川上水(たまがわじょうすい)には船がいききし、明治22年には武蔵野村が誕生(たんじょう)!

 明治時代になると文明開化(ぶんめいかいか)といって社会がどんどん発展(はってん)していきます。今も市内を流(なが)れる「玉川上水」には、奥多摩(おくたま)の材木(ざいもく)やマキ、炭(すみ)を江戸(えど)の中心地(ちゅうしんち)に運(はこ)ぶ船がいったりきたりしていました。

 現在(げんざい)の第(だい)一小学校(当時のなまえは研さ学舎[けんさがくしゃ])が明治6年(1873年)6月に開校(かいこう)。8月には、現在の第二小学校(当時のなまえは栄境学舎[えいきょうがくしゃ])が開校しました。

 明治22年(1889年)には、吉祥寺(きちじょうじ)、西窪(にしくぼ)、関前(せきまえ)、境(さかい)の4つの村がひとつになって武蔵野村(むさしのむら)がうまれました。そのころの人口はおよそ3000人でした。

 この年、今の中央線(ちゅうおうせん)の一部(いちぶ)、新宿駅(しんじゅくえき)~立川駅(たちかわえき)間ができました。当時(とうじ)は、「甲武鉄道(こうぶてつどう)」とよばれていました。

中央線の写真
中央線は1889年から走っています

コラム 甲武鉄道物語(こうぶてつどうものがたり)

 開通したときは、新宿駅、中野駅(なかのえき)、境駅(さかいえき)、国分寺駅(こくぶんじえき)、立川駅と5つの駅しかありませんでした。

 吉祥寺駅(きちじょうじえき)ができるのはそれから10年後の明治32年(1899年)。そのころは駅のまわりに家は数軒(すうけん)あるだけ。のりおりする人は数人だったという記録(きろく)ものこっています。

 今の三鷹駅(みたかえき)ができたのはさらに30年後の昭和(しょうわ)5年(1930年)のことでした。

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