大正(たいしょう)時代の武蔵野

このページの情報をXでポストできます

ページ番号1011334  更新日 2019年6月6日

印刷 大きな文字で印刷

大正時代には、東京(とうきょう)の中心(ちゅうしん)から武蔵野のまわりにひっこしてくる人がふえてきました。

農村(のうそん)から住宅地(じゅうたくち)へと発展(はってん)

 大正時代(たいしょうじだい)のはじめには、武蔵野村(むさしのむら)では、繭(まゆ)、麦(むぎ)、陸稲(おかぼ)、芋(いも)づくりなど農業(のうぎょう)がもっともさかんな時期(じき)を迎え(むかえ)ます。しかし、そのあと中央線(ちゅうおうせん)の発展にともなって住(す)む人がふえて、畑(はたけ)はへっていきます。

 大正12年(1923年)には、「関東大震災(かんとうだいしんさい)」という東京(とうきょう)の多くの家がたおれたり火事(かじ)でやけてしまう地震(じしん)がおこり、ひがいの少(すく)なかった武蔵野のまわりに多(おお)くの人が集(あつ)まるようになりました。武蔵野は東京の中心から中央線で結(むす)ばれる郊外(こうがい)にある都市(とし)として発展していきます。
 また、大正6年(1917年)には、プールやボート場がある「井の頭恩賜公園(いのかしらおんしこうえん)」が開園(かいえん)。今の「西武多摩川線(せいぶたまがわせん)」の一部(いちぶ)、境駅(さかいえき)と府中市(ふちゅうし)の白糸台駅(しらいとだいえき)の間が同じ大正6年に開通(かいつう)。大正11年(1922年)にすべての区間(くかん)が開通しました。当時(とうじ)は、「多摩鉄道(たまてつどう)」とよばれ、多摩川(たまがわ)でとれる砂利(じゃり)を運ぶのに使(つか)われていました。

井の頭恩賜公園の写真
桜(さくら)が有名な
井の頭恩賜公園(いのかしらおんしこうえん)も、
このころできました。

このページに関するお問い合わせ

教育部武蔵野ふるさと歴史館
〒180‐0022 東京都武蔵野市境5-15-5
電話番号:0422-53-1811 ファクス番号:0422-52-1604
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。