ブックタイトル2012武蔵野市市勢要覧(2014年一部改訂版)
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2012武蔵野市市勢要覧(2014年一部改訂版)
昭和22年-30年戦争が終わった2年後の昭和22年11月3日、市制の施行によって武蔵野市が誕生しました。市では学校や保育園、上下水道、公営住宅などの社会基盤を整備し、人口も増加する中、自治体としての基礎を築いていきました。また、ごみやし尿の回収も始め、公衆衛生の改善にも取り組み始めました。市制施行の頃の旧町名による武蔵野地図学校建設の費用を募った「愛市公債」昭和22年11月3日、市制が施行されました。当時の人口は、現在の約半分の6万3000人。初代市長には、同年の4月に直接選挙で武蔵野町長に選ばれた荒井源吉が就任しました。武蔵野市がまず取り組み始めたのは、六三制教育の施行と急増する人口に対応するための学校づくりでした。昭和30年までの8年間に中学校4校と小学校6校が開校されていきます。しかし、資金は十分ではありません。そこで市では、建設資金を市民から借り入れ、また、「愛市公債」と呼ばれた公債を発行して、市民をはじめ協力者から資金を調達しました。市では、学校の整備に取り組んでいきながら、文化都市としての特徴も打ち出していきます。市制施行に先立ち、昭和21年に町立第四小学校の教室を利用するかたちで、戦前にはなかった図書館が開館。また、昭和24年には中島グラウンドの跡地に総合運動場が作られました。戦後間もない時期に文化教育施設の建設に力を入れた市の歴史は、文化都市づくりにかける明確な意思があったことの証しでしょう。市制の施行によって武蔵野市がスタート。文化都市としてのまちづくりを目指す。1947年(昭和22年) 10月福祉事務所発足11月武蔵野市議会報創刊4月町立第一中学校(現一中)開校/町長に荒井源吉就任第一(本宿)、第二(公園通り)、第三(境1952年(昭和27年)6月駅前)出張所設置4月市立本宿小学校開校/水道事業およ11月武蔵野町から武蔵野市へ/市制施行び下水道事業着工(3日)、人口6万3,000人/初代市長11月市制施行5周年記念式典を挙行/第1に荒井源吉が就任(~昭和38年4月)回市営立川競輪開催/武蔵野市教育/初代市議会議長に松原福蔵就任/委員会発足市消防団結成/初の市議会開会1953年(昭和28年)1948年(昭和23年)2月『武蔵野市』上巻を発行2月学校給食が始まる4月市立第四中学校開校3月武蔵野地区消防組合発足/自治体警5月議長に森田元次就任察設置6月市営プール開設4月ごみの収集開始11月グリーンパーク米軍宿舎完成6月武蔵野市報創刊9月市立図書館移転(四小→旧市役所前) 1954年(昭和29年)1月成人祭開催1949年(昭和24年)4月市立関前小学校(現千川小)開校7月武蔵野赤十字奉仕団結成5月都市計画道路中央通り完成9月市立第二中学校開校6月副議長に本田実男就任10月市営陸上競技場、サッカー場開設7月自治体警察廃止(都へ移管)9月第一浄水場完成、給水開始1950年(昭和25年)11月『武蔵野市』中巻を発行八丁特飲街の撤去運動起こる8月武蔵野商工会議所開設1955年(昭和30年)10月市営によるし尿のくみ取り開始1月武蔵野・三鷹地区保健衛生組合設立12月電気通信研究所が武蔵野市へ3月西窪地区(現緑町)に鉄筋アパート600戸が造られる1951年(昭和26年)4月市立井之頭小学校開校/市立境北小3月都市計画下水道計画決定学校開校/市立関前保育園開園(現4月市立大野田小学校開校/市立第三中千川保育園)学校開校/国鉄武蔵野競技場線(三5月議長に井野善太郎就任鷹駅~武蔵野競技場前)開通/関前6月一小、二小、大野田小に特殊学級開設出張所設置(都下で初めて)5月議長に望月勝三就任/東京グリーン7月衛生協力会発足パーク球場ができる10月ふじみ病棟(伝染病棟)竣工(武蔵野・6月市立境南小学校開校三鷹地区保健衛生組合)7月武蔵野市身体障害者協会結成9月成蹊前出張所設置昭和22年11月3日、市制施行昭和26年、人口が増え活気づく吉祥寺仲町通り商店街東京グリーンパーク球場を最初に使ったのは東京六大学(昭和26年4月の法政対明治戦)昭和28年、待望の市営プールがオープン。子どもの料金は現在と同じ10円56