ブックタイトル2012武蔵野市市勢要覧(2014年一部改訂版)

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概要

2012武蔵野市市勢要覧(2014年一部改訂版)

年表でたどる武蔵野市武蔵野市エリアでの人々の営みは、先土器時代にまでさかのぼり、自然の恩恵を受けながら、農耕を行って暮らしてきました。明治時代には現在のJR中央線も開通し、郊外都市として発展を続け、戦時中には市内の軍需工場を標的とした激しい空爆にも耐えてきました。終戦後、その荒廃から立ち上がった武蔵野市は、市民とともにさまざまな施策を進め、魅力あるまちづくりを行ってきました。緑豊かな環境に文化都市を育む武蔵野市の取り組みは絶え間なく続いています。江戸時代まで武蔵野市の歴史は、先土器時代(1~2万年前)にさかのぼります。井の頭池周辺では、石器、土器、住居などの遺先土器時代から続く武蔵野の暮らし。江戸市中から移り住んできた人々などにより4村が誕生。物が出土しています。江戸時代になると度重なる大火によって江戸市中の現在の水道橋や港区芝周辺から人々が移住し、吉祥寺村、西窪村が誕生。さらに開墾などにより関前村、境村もでき、4村が誕生しました。昭和37年の御殿山遺跡発掘の様子先土器時代(1~2万年前)井の頭池畔御殿山から石器が出土(昭和37年)4000年前井の頭恩賜公園御殿山で縄文中期の集落が発掘(昭和37年)江戸時代まで771年(宝亀2年)武蔵国、東海道に属す1629年(寛永6年)徳川家光が小石川上水を改修し、神田上水とする1650年(慶安3年)江戸西久保城山町(今の港区芝西久保巴町)が焼失1653年(承応2年)玉川上水敷設工事の許可が下り、翌年に完成1658年(明暦4年)1月、江戸大火が起きる。水道橋の吉祥寺類焼1662年(寛文2年)西久保城山町の農民、武蔵野に移住。これが現在の西久保の由来。城山通りに名が残る1664年(寛文4年)吉祥寺村、西窪村が検地される1672年(寛文12年)関前村が検地される1678年(延宝6年)境村が検地される1696年(元禄9年)千川上水が完成1725年(享保10年)武蔵野新田が開かれる1736年(元文元年)境新田、関前新田を含む武蔵野新田83カ村が検地される1866年(慶応2年)武州一揆が起きる太古の暮らしを今に伝える井の頭池遺跡群井の頭池遺跡群の本格的な発掘調査は、昭和37年に始まります。約1週間の調査期間中に、縄文時代の竪穴住居跡が二つ発見され、同時にかなりの量の土器や石器も発掘されました。以来、井の頭池周辺は、「御殿山遺跡」「吉祥寺南町一丁目遺跡」「吉祥寺南町三丁目遺跡」の3エリアに分けられ、これまでに合計270回以上もの調査が行われています。調査で住居跡が発掘されたことから、多くの人が定住し、村を形成していたことが分かります。武蔵野市周辺は太古から、自然の恵み豊かな土地だったのです。遺跡群のエリアでは、文化財保護法に基づく調査が義務付けられています。武蔵野市民の高い文化意識と協力がなくては、これまでの調査は実現しなかったでしょう。井の頭公園にある御殿山遺跡の石碑54